インターネット版●

富田和明的個人通信

月刊・打組

1995年 1月号 No.1(創刊号/再発行)


初打ち

二尺宮太鼓を叩いた日

1994年 12月10日

 幼い頃より、部屋の中や庭先で浮遊している夢を私はよく見た。

 

 

 空を飛ぶというよりも、犬かきのように手足を動かすだけで天井板までや、庭の松の木のてっぺん近くまでフワフワと浮かんで行ってしまうのだ。

 それは決して空高くまでは昇らない。地面からそこそこの高さだ。

 

 私は下の様子ばかり眺めていて、仰向けになって上空を見上げる、といったことはしない。

 下の皆もそんな私を見て特に驚いた風でもなく、母も

「風呂、入いったんか?」

「宿題、したんか?」

などと、仏壇の上方でお菓子を頬張りながら浮かんでいる私に声を掛ける。

 

 私は、とっても気持ちがよいのだが、妙な気分でもある。

 そしてこの夢の終わりには決まって太鼓の音が間こえてくるのだった。

 

 

 淡路島の私の田舎にも祭りはある。

「布団だんじり」と呼ばれる山車が各町内ごとにあり、十台ほどが町の小さな神社に集まる。だんじりは豪華な幕や提灯に飾られており、これが必ず金銀に彩られた龍であった。

 中には太鼓が一台入っていて、単調なリズムを子供四人ほどで打つ。

 この山車に乗って太鼓を叩きながら町を練り歩きたい、と幼い私はいつも願っていたが、これは叶わなかった。

 

 私の町内は他の町内のようにだんじりを持っていなかったからだ。

「なぜ、うちの町内にはないのか」

 小学五年の時、泣いて父を責めた。

 しかし、この後は自分でも恥じたのか、祭りの話はしなくなった。

 

 

 『沈める瀧』の公演を機会に、二尺の宮太鼓を買うことにした。

 私は生まれて初めて自分の太鼓というものを持ったのだ。

 

 

 

 初打ちは、ある養護学校の体育館でだった。

 

 いきなり続けざまに私がバチを皮に振り下ろすと、太鼓の音が私の目に突き刺さってきて頬を叩いた。

 

 音の余韻で体が少し震えた後、私はなんだか嬉しくなって、体育館の天井上までゆっくりと揚がってしまった。

 

 


九万七千分の一との邂逅

淡路 阪神大震災に想う

1月30日

 私の祖父は小学校を卒業後、隣町の淡路島一宮町郡家にある畳屋に丁稚奉公に入り、20才で独立、津名町志筑の借家で開業した。

 

 11年後、当時のお金五仟円で現在の場所に仕事場兼自宅の木造二階建ての家を建てた。

 大正10年(1921年)のことだ。

 

 

 この家の二階で九人の子が生まれたが、三番目に生まれたのが私の父で、八番目が私だった。昭和21年(1946年)の南海大地震でも家は傾いたが、それば修正できた。しかし、今回の兵庫県南部地震では全壊になってしまった。

 

 

 1月17日午前5時46分、一瞬のうちに向かい三軒は倒壊で瓦礫の山となり、我家を含めた左三軒は倒壊の一歩手前でもたれかかる様にして止まった。

 我家が建つ志筑本町通りは、大正から昭和にかけて町で一番賑やかだった通りだが、この通り沿いに建っていた家が八割方全壊した。

 何しろほとんどが古い木造の家屋だったのだ。

 我家では、二階に寝ていた両親が一階に転げ落ちながらも外に逃げ、全身を打撲したようであったが、幸いにも無事だった。

 向かい三軒の住人は、一人が早朝出勤で家を出た後の惨事で、三人は瓦礫の中から自力で這い出て、一人は近所の人たちに助け出された。

 

 

 私は地震があった翌日に空路、淡路島に帰った。

 

 羽田を飛び立った飛行機は淡路島の南端から中央部を通って北上する。

 雲一つない青空。

 

 そこに立ちこめる黒い煙の渦。神戸の街からはまだまだ暗雲が立ち上がり炎が猛けてる。そこでどのようなことが起こっているのか、想像できない。

 

 神戸の空以外の空は何もなかったような、明るい空だ。

 機上の窓からは島の建造物がミニチュア模型のように見えた。

 

 海上にある新関西国際空港から高速艇で30分、交通の便で支障はなかった。

 

 津名港に着いて町の外側から見る分には被害の状況ば判らなかったが、町の中に入ると至る所で瓦礫の山があり、快晴の青空の下、保護色の制服を着た自衛隊員たちが、我家の前でも塞がった道路の瓦礫を片付ける作業をしていた。

 

 町中には沢山の人が居た。

 私の家の近くでも人が一杯だ。普段は老人の町で、年奇りが一人、二人で住んでいる家ばかり軒を連ねているのだが、その家の子供たちや孫たちが駆け付けていたからだ。私も何十年振りかで色々な人と再会した。

 それから何日も親戚兄弟や近所の人たちが集まって、瓦礫の中から物を掘り起こしたり、片付けをした。

 地震があって四日目から、向かいの家の瓦礫を取り除く作業が始まり、祖父が建てた我家もちょうど一週間後に取り壊され、きれいな平地に変わった。

 それは74年振りに姿を見せた地肌だ。

 

 

 これは今回の地震によって損壊した家屋九万七千棟の中の一つの話にすぎない。

 我家は幸いにも離れ屋が無事で、現在両親と弟は狭いながらもそこで暮らしている。

 地震直後、電気・ガス・水道、すべてが止まったが、ガスは四日後に、水道は十日後から使えるようになった。

 電気は現在使用できるようになったが、家の中の電線に問題がある為、容量が非常に少ない状態で、テレビさえも地震からずっと映らない。しかし、これもあと一遇間前後て改善される予定だ。

 母屋にあった親父の仕事場も無くなってしまったので、親戚の納屋を借りてまた再開するようだが、まだまだ以前のようになるにはかなり時間が必要だろう。

 

 地震から一週間、東京に戻るとまるで別世界だった。

 震災現地は本当にヒドイ状態で、全く違う社会がある。被災地では今も逃れ様もない現実かあるのに、東京で見るテレビからは地震のニュースが日を追って少なくなっているような気がする。

 勿論そうでなけれぱ日本全体としては社会が成り立たないのは分かっているが、同じ日本の中に住んでいて、奇妙な違和感を感じるのだ。

 その違和感を感じながら、それでもこの地で私たちは生活をしていかなくてはならない。

 

「万物は壊れるもの、命は失われるもの」と決まっている。

 しかしこれからもこの世に物は造られ、人も誕生し続けるだろう。

 

 私にとってここで太鼓を叩かねばならない意味は何なのだろうと考える。

 三味線を弾かねばならない理由は何なのかと考える。

 

 この短期間の中で私にはまだこの答えば出せないが、太鼓も三味線も、これまでに何千年、何百年もの間、人の中で生き続けてきた物だ。

 人が地を踏み鳴らし舞う所作はと考えるともっともっと古い。

 答えは歴史が語ってくれているのかもしれない。

 


 

●昔から書くのは大好きで読んでくれる人がいれば、いつまでも書き続けられる私です(内容の充実度は別として)。念願の個人通信です。他人には何の役にも立ちませんが、僕は喜んでいます。

 

●地震の前日、千葉マリンマラソン大会に出場してハーフマラソンを走りましたが、たったの21?なのに、こんなにしんどい事はなかった。それ程、もう以前の体ではないという事を教えてくれているのだと思うけれど、もう一度フルマラソンを3時間台で走りたい。20歳の時、佐渡へ渡って3週間後に初めてマラソンを走って、その時で3時間55分だった。今はただ20?を完走するのがやっとだ。この18年間僕は何をやっとったんやろと思う。

 

●今回の地震はホントにヒドイ。まだずっと大変だろう。20年前、島から横浜に出てきて、誰も淡路島のこと知らなんだ。今は有名になった。1年位は覚えといてくれるだろう。でも被災地の人々はずっと忘れられんやろ。

 

●今年は大変な年明けとなってしまいましたが、現在は2月の公演が迫ってきているので気が抜けません。舞踏のダンサーたちは15名ほどですが、彼らは毎日稽古をしているのです。太鼓打ちよりもビンボーな生活をしている人がホント多いのです。私は昨年末、義弟から車(トヨタ・ハイエース)をもらい、やっと車持ちになりましたが、収入の増加よりも維持費の方が高くつき困っています。太鼓の収入はまだ少なく、毎日の生活のために某会社でアルバイトをしていますが、今年はどうしてもアルバイト収入より、太鼓の収入が上回るよう頑張りたいと思っているのでした。東京近郊の方、ぜひ2月の公演にはいらして下さい。キットですよ!

太鼓打ち誕生
太鼓打ちとして1995〜の記録


インターネット版 『月刊・打組』 1995年1月号 No.1

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