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富田和明的個人通信

月刊・打組

1998年3月号 No.34

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六月は行く(19日)!?打撃団

2月28日

 

 五人での東京打撃団が国立(くにたち)芸術劇場で産声をあげてから、下北沢タウンホール、池袋の東京芸術劇場小ホールなどで自主公演を行い、今回やっと地元(打撃団の事務所が世田谷にあるので)の世田谷パブリックシアター(以後「世田谷PT」)公演が実現した。

 打撃団公演は一回一回演目が変わる。すべて同じ演目を同じ流れでやる、ということはほとんどなかった。お馴染みの演目もあれば、新曲も入る。そして劇場が変われば当然演出も変わる。

 この世田谷PTは、一歩舞台に上がっただけで嬉しくなるのは、舞台が広いことだ。奥行きもある。高さも袖も充分。客席も三階席まであっても舞台に近く見やすく、臨場感がある。ヨーロッパによくあるドラマシアターの雰囲気で、これでは劇場に不足はないどころか、空間から刺激をたくさんいただくことになる。劇場下見を一度した時から、公演が待ち遠しかった。こんな場所で太鼓を叩けるのはそうそうないことだ。

 今回も新曲は『サボ天』(ヒダノ曲)、『SAKAKI』(林田)、『まほろ』(村山)等があった。僕の曲(と言えるかどうか判断は見た方にまかすが)はソロの『つき‐ひ』と、平沼のアイデアがあって作られた幕開きの『小ヶ鼓々(こけこっこ)』だ。

 『小ヶ鼓々』は演出の平沼が前々から小さい太鼓を使った演目をやりたいと言っていて、この曲名も平沼がひねり出した。タイトルが先に出来て曲ができた。最後太鼓が空に飛んでいくアイデアも平沼のもので、この曲が今回の公演の引導役であり、最後のアンコール曲につながるすべてであった。と言うと言い過ぎだろうか。

 『つき‐ひ』は本番まで結局一度もやる(見せる)ことなく、リハーサルも出入りなどのタイミングを合わせただけで、正しくぶっつけ本番だった。

 ずっと自分のソロの曲をどうするか迷い、あのヒダノ修一の超テク太鼓群ソロ打ちの後に何が出来るか悩み、やっと村山のアドバイスも得て稽古合宿の時に一度きちんとやろうとしたのだが、演出に「こんなものをやるのか」と茶化されたので頭にきて見せるのは途中でやめたが、心の中では「ようし、絶対にやってやる」と燃えて迎えた本番だった。

 この二曲に共通するものは、世田谷PTという劇場があってこその演目であって、この小屋がなければ生まれなかったのではないかということだ。これからも太鼓のイメージを塗り替えるものを表現してゆきたいが、次回の世田谷PT公演では少し正統(って何だかわからんが)な太鼓の曲にも取り組みたいと思っている。


月下の殺陣士たち

3月21日

 

 潔い、という言葉の似合う人たちと出会った。

 殺陣と書いて「たて」と読むのは、江戸時代、歌舞伎の「立ち回り」を略して「たて」と呼び、それに殺陣の文字をあてたことが今日まで続いているそうだ。しかしこの殺陣は歌舞伎での立ち回りのことで、より実戦に近いリアルな立ち回りが作られたのは、新国劇でのことだ。

 このあたりのことはマルセ太郎さんの新講談『殺陣師 段平物語』に詳しいが、当時の舞台世界に大衝撃を与え、それはシネマ創世期にも重なり、坂東妻三郎、大河内伝次郎、嵐寛十郎などのスターを生み出した。しかしそれからまだ百年そこそこの歴史も持たないうちに、衰退が著しい。時代が受け入れなくなったと言えば簡単だが、「少なくとも(現在の)テレビ時代劇には、戦前の傑作時代劇の殺陣が持っていたアナーキーさや、狂気じみたテンションの高さ、リアルな迫力、絡み(斬られ役)の高度な技術といった要素が不足もしくは欠落しているのは事実」と大岡透さんはいい「本物のチャンバラの復活、チャンバラの魂の蘇生」を願い「世界に誇ることの出来る芸の遺産をむざむざ腐らせてしまうのは日本人にとっても大きな損失」と考え『殺陣舞台大岡組』を結成したという。

 この言葉だけを聞くとそれだけで「もうそうとう考え方が古い」と笑う人もいるかもしれないが、この時代に逆行するかのような精神に僕は心を動かされた。

 昨年の12月12日、東京練馬区江古田の日大芸術学部校庭で煌々と輝く月の下、幕開きの演目となる「羅刹(らせつ)」を見せてもらった。これが殺陣を生で見た最初だった。この時すでにこの演目は完成しているのではないかと思われたが、それから三ヶ月間の稽古を重ね、本番一ヶ月前からは毎日が稽古だったそうだ。

 僕はその時々の稽古にしか立ち会っていないが、驚くのはその稽古にだ。とにかく繰り返す。僕の目には充分出来ていると思えることを、何度も何度も稽古する。人の立ち位置、人と人との間隔、刀を降ろす角度、一つ一つの速度、体の動き、などが全部違うので、それを完全に体で覚えて、飽きるほど、くどいほど繰り返す。それが殺陣の稽古のようだ。

 確かに失敗が許されない。一歩間違えば本当に命取りになってしまう、恐ろしい芸術だからだ。絡みの人数が増えれば増えるほどそれは当然複雑になり、全員の気が一つにならないと、一瞬のうちにすべてが崩れてしまう。誰か一人が間違って「わるい わるい」で済まないのだ。

 段取り、手合わせ、やや流し、流し、と段々と動きが早くなり、最後が本意気。そんな風に稽古のやり方を彼らは呼んで区別していたが、よくこれだけ緊張が持続できるものだと呆れるほど真剣だった。これが大岡さんのいう「殺陣は一生修行」というものだろうか。

 本番当日も昼夜二回公演の前に通しリハーサルを行い、演目によってはもう一度稽古を重ねていた。僕は彼らの真剣な瞳を眺めながら、佐渡國鬼太鼓座時代の初期の稽古を思い出した。本番がいつあろうとなかろうと、ただ太鼓にバチを振り下ろすことに打ち込んだ、ただ走ることに打ち込んだ日々のことを。

 例えば秩父屋台囃子。締め太鼓の規則正しくも単純なリズムをどれだけ叩いたことか、中太鼓の同じ決まり手を何時間叩いても、それが快く新鮮であったことを思い出した。これは自分の体と問答を繰り返しているようなものだ。太鼓の皮や空(くう)を見つめることで、自分と向き合う太鼓の稽古と、生身の人と人との視線が火花を散らす殺陣の稽古は違うように見えるが、共通する何かを感じさせる。

 今回の殺陣舞台に出演したのは男八名、女五名、計十三名。この人たちが入れ替わり立ち替わり、休む間もない総出演の約二時間(一部と二部の間の休憩時間も着替えの為の時間)、これで本番前に誰か一人でも倒れてしまえばどう塩梅されただろうか、これまでの稽古が水の泡と消えるのか?考えるだに恐ろしい事だったが、無事に幕が開き、幕が下りた。

 殺陣は芸術であっても、人を斬ること殺すことを見せるもので、見ていて決して楽しいと言えるものではないし、現在の教育現場から見れば、刃物を振り回す舞台など最も子供たちの眼から遠避けたいものになるかもしれない。

 だけども僕は、彼らの殺陣を見て心研ぎ澄まされるものを感じたし、今回眼にした殺陣の人々の、殺陣を離れた時の明るい表情、公演が終わった後の子供のような輝かしい顔を見て、これだけは思うのはお互いの絶対的な信頼関係があるということだ。それがなければ刀を一振りだに出来ないはずだ。そして殺陣での一番大切なことは、人を傷つけないことだとも聞いた。

 あえてこのような場所に身を置こうと考える人々は、やはり潔く清爽の気がみなぎるのであろうと思うわけである。

 

 

 

 

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インターネット版 『月刊・打組』1998年 3月号 No.34

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