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富田和明的個人通信

月刊・打組

1998年 11月号 No.41

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11月12日

 朝、いつものように郵便受けから新聞を取り出して一面を広げるとそこに「淀川長治氏死去」の文字と笑顔の写真が目に入ってきた。僕は「きたか」と呟いた。そして「89歳だったのか」と驚いた。その瞬間、一気に僕の記憶が飛び跳ねた。

 今から23年前の春、淀川さんは僕の学校(当時・横浜放送映画専門学院。学院長・今村昌平)にやってきた。毎週金曜日の午後が淀川さんの映画史の講座で、その話の後か先に映画を一本観るのだ。 「かくも長き不在」「甘い生活」「天井桟敷の人々」「鉄道員」「戦艦ポチョムキン」等々名画と呼ばれる多くはここで観て話を聞いた。淀川さんが特に力の入ったのはやっぱり「チャップリンのサーカス」であり「駅馬車」だったように思う。淀川さんはチャップリンとジョンフォードに惚れ抜いていたのがよく伝わった。

 この講座は六百か七百人は入れるスカイ劇場で行われていて、初回講座は入りきれないほどの数の学生が大歓声と拍手で淀川さんを迎えたが、半年が過ぎると出席学生の数がかなり減っていた。ある時、ロビーでたむろしながら、時間になっても中に入ろうとしない学生らを見かねた淀川さんが一度怒って彼らを呼びに行き、引き連れて入場してきたこともあった。そして舞台に戻った淀川さんは、演台にしがみつくようにしてこう言った。 「みなさんの中から、ひょっとしたら一人のチャップリン、ジョンフォードが生まれるかもしれません。その人に向かってこれから話をします」

 本当に贅沢な学校だった。

 学校の講座以外でも、淀川さんが主宰していた「映画友の会」(横浜と東京で月一回開いていた)へ何度か僕は足を運んだが、友達に誘われて初めて行ったのはいつだったのか?メモを見ると、’75年6月15日とある。

 国鉄の石川町駅で下りてどこかのビルの会議室でだった。日曜日の午後三時過ぎ、明るい日差しが窓から充分降り注いでいた。あの小さな体と笑顔で現れるやすぐに話が始まる。その時は何の映画の話だったのか覚えていないが、淀川さんが話すテーマはいつも一つ。それは「人を愛しなさい」ということだったと思う。どんな人でも皆素晴らしいものを必ず持っている。その人にしかできない素晴らしいものを持っている。人を愛して愛して愛しなさい。私は嫌いな人に会ったことがない。

 こんな言葉を聞くと、普通は拒絶反応を起こす僕だが、淀川さんからこの言葉を聞くととても自然に受け入れられた。

 この会は一回二時間、ほとんど淀川さんの独演会で、熱く熱く語り続ける。神戸出身の淀川さんはフランス映画もイタリア映画も、登場人物は「お父ちゃん」「お母ちゃん」になり、他にも方言がふんだんに出てくる。とてもやさしく分かりやすい言葉だけを使って、深く心に届ける。その姿をじっと見ていると、18歳の僕には本当に後光が差して見えた。それほど淀川さんの目は気迫と優しさに包まれ、輝いていたのだ。

 世間の話題に関しても、マスコミの評価とまるで異なる意見を言うことが少なくなかった。「何が良くて何が悪いのか、自分の頭で考えられること、それを学びなさい。私は映画が教科書でした」。

 当時の淀川さんは66歳だったのか。あの情熱を、僕も奮い起こしたい。

 

 


インターネット版 『月刊・打組』1998年 11月号 No.41

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