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富田和明的個人通信

月刊・打組

1999年 3月号 No.44

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誕生について

3月17日   

 そうだ、42歳になっていた。
 この歳になると誕生日が有ってないような、ま、幼少から学生時代に至っても誕生日の記憶はまったく希薄だが、はっきり覚えている誕生日も無くはない。その話から書こう。
 20歳で佐渡の鬼太鼓座に入り、初めて迎えた誕生日が、21年前の三月七日。
 そこに加藤登紀子さんが駆けつけて下さり、僕のために僕の大好きな『風の舟歌(山田洋次監督映画「故郷」主題歌)』を唄って下さった。
 本当のところは、お登紀さんはたまたまNHKの取材で来座していただけで、「風の舟歌」は僕がリクエストして唄っていただいたのだが、僕にとって忘れられない誕生日となったのは言うまでもない。
 だって佐渡に渡る二年前、映画館でこの映画を何度も観て涙してたんですから。そのご本人が僕の前でギター持って座ってるんですよ。
 お登紀さんの生唄は意外に声が小さく(歌手はみんな声が大きいと思っていた)目の前で唄って下さっていても、耳をそばだてなければいけない位(これもプロの技か?)で、そのために第一声が出たとたん、周りの空気がシンと凝縮し、ギターの弦音とお登紀さんの声だけがプレハブの食堂に響いた。とっても澄みきった美しい声でした。
 当時鬼太鼓座の毎日は、早朝から日暮れまで、ひたすら走ることと叩くことと、更に走ることに埋め尽くされていた。ところが、誕生日の夜は無礼講だった。
 酒を飲むわけではないけれど、御馳走と座員の余興があって大騒ぎ。唄って踊ってコントして女装して芝居して。座員の数も多い時で一五人、少なくて一0人位。これ以上増えることも減ることもなかった。だからちょうど良いタイミングで、誰かの誕生日が訪れた。そういう時代です。
 特に僕が入座した後は座員が増えず、入ったと思ったら数日から長くて一年で離れていく人ばかり。辞めていく人数の方が多かったと思う。ずっと一番下でした。やっと腰の据わった人が入ったのが『座・鬼太鼓座(加藤泰監督映画)』撮影中でした。今、この方は鼓童でエライ人になっているそうです。鬼太鼓座は上下関係がそんなに厳しくはありません。サンドイッチ作った時にパンの耳を切ったということで怒られるくらいでした。僕の鬼太鼓座時代は四年間ですが、嫌な先輩の話は今思い出そうとしても、まったく記憶にありません。日記に一杯書いてあるだけで、僕は書くとすべて忘れてしまう性格なんです。
 
 アフリカ大陸モロッコの内陸都市マラケシからバスで約九時間、そこから歩いて約二キロのタラマルト村。二七歳の誕生日は、ここで迎えました。
 どうしてここに居たかというと、鼓童のヨーロッパツアー中の休暇でパリからマラケシに飛んだのです。バスの中で知り合った小学校の先生の家に泊まり、普段の食事はパンと山羊のミルクだけだというのに、このベルベル人の若い先生はその日、ニワトリをつぶしてくれました。走り回っていた鶏を捕まえて、料理されるまで一部始終を手伝ったのはこの時が初めてです。
 滞在中、村で僕は未亡人のおばさんに気に入られ、その家に閉じこめられそうになりました。冗談だと思っていても、目は笑っていなかったから、僕も本気で逃げたのです。あのまま逃げ出さないでいたら、まだモロッコの土の家で羊と山羊に囲まれながら、暮らしていたかもしれません。
 海外で迎えた誕生日は珍しくありませんが、この日のことをよく覚えているのは、この辺りは四年間、雨は一滴も降っていない砂漠地帯で、空は絶対に曇ってもやるもんかという、どこまでも頑固な青天井。それだけに陽が落ちた後の星の輝きが尋常じゃないのです。翌日はその星影の下、一時間ほど歩いて隣村の結婚式の披露宴に飛び入りしました。
 
 誕生日ですぐ思い出せたのはこの二つだけ。色艶のある話がないのは淋しいですが、さっぱり覚えていません。
 僕は魚座で血液型Aのせいか、まめな部分とぐうたらな部分がたえず同居しているようです。
 風呂に入る時でさえ、今だに湯船の中で自分の歳の数だけ数をかぞえないと(今は朝鮮語でかぞえてます)茹で上がっても出て来れない几帳面な性格と、湯船に入る前に必ずそこで小用を済ましてしまう横着な質が両面現れてしまいます。
 そんな人間が四二歳になって、去年が本厄で今年が後厄。
 やれやれ、一年が無事過ぎたのも淡路一宮伊 諾神宮の霊験か、はたまた京都祇園の「厄除け月鉾ちまき」の徴かと、右と左の手のひらを合わせていたところに、私のシリーズ公演を行っていた二つの馴染みの劇場が立て続けに締める知らせがはいりました。

 二月九日に渋谷ジァンジァンでの『富田和明 参上 太鼓物語』第五夜 「祇園ばなし」が行われ、ジァンジァン公演が幕を閉じ、三月一七日に『富田和明 兎小舎 なにみてたたく』第十三夜が行われ、築地ミニパフォーマンススペース兎小舎が中締めとなりました。
 十三夜の宣伝チラシには書かなかったけれど、この後十四、十五夜の公演が兎小舎で出来るかどうか、可能性は今のところ非常に薄い。劇場は残り、経営者も変わらないが、運営が変わると言うことだ。ちなみにこの運営を任されていた支配人のSさんの誕生日も僕と同じ(但し、性格は違います。非常に上品な方です)でした。
 第十三夜で兎小舎も最後になるかもしれず、これまでゲストで出演してもらっていた打撃団のメンバー四人に特別全員参加してもらい、花を添えた形となったのです。

 ジァンジァンといい、兎小舎といい、タイトルに富田和明の名前が入ったシリーズを興行する劇場は危ない、と噂にはなりませんが、門仲天井ホールでのタイトルは『和太鼓 体感音頭』でよかった、と正直に胸をなで下ろし、プーク人形劇場での子供のための和太鼓コンサートも『てんドン かつドン たいこドン』と、僕の名前は主題から避けた(副題には使ってます)くらいだ。いっそのこと名前も変えて新シリーズのタイトルに使おうかと思った。例えば、
『ヘドロ ゴンザレス 富田 炎上逆襲和太鼓コンサート』とか、『吉永ゆり 想い出打記草子』とか、どうでしょう?
 ヘドロゴンザレスは鬼太鼓座時代、カナダのビクトリアからアメリカのシアトルへフェリーで渡る時、車に乗ったままパスポートチェックが行われ、その時の税関にプレゼントされた名前だ。
 当時一台のバンに十人ほどがびっしり乗り込んでいて、助手席の窓から中を覗き込んだ係員はちょっと顔をしかめた。そして静かに彼の業務は遂行された。まず全員のパスポートが集められ、パスポートの顔写真を見ながら彼が慎重に名前を呼ぶ。
「ミスター トシオ カワウチ」
河内本人が「イエス」と返事をして係員はもう一度パスポートの写真と確認する。
「ミスハルミスズキ」「イエス」
「ミスターカツジコンドウ」「イエース」そしてあと二人となったところでこの彼が名を呼んだ。
「ミスターヘドロゴンザレス」
「・・・・・」
誰のことだろうと皆がそのパスポートを見ると、それは僕のパスポートだった。どこにもヘドロゴンザレスなんて書いてない。
 車内が大爆笑となり、係員は少しニヤと笑い、去って行く。
 毎日の退屈(?)な確認作業を彼は自分のパフォーマンスの場に変えていたのだろうか。カナダはいい。日本の税関職員がやったらすぐ首が飛ぶかもしれないぞ。
 吉永ゆりは、今ちょっと思いついただけ。
 しかし、こりゃいかん。
 やっぱり自分の名前できちんと勝負しなくては。
 逃げてはいかん。
 そういう訳で『富田和明 参上 太鼓物語』も『富田和明 なにみてたたく』もまだまだ続きますので、こちらはお忘れなく。

 



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インターネット版 『月刊・打組』1999年 3月号 No.44

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