インターネット版●

富田和明的個人通信

月刊・打組

1999年 6月号 No.47(7月2日 発行)

このページはほぼ毎月更新されます。年10回の発行

オリジナル版御希望の方は『月刊・打組』についてをご覧下さい


『梅雨の晴れ間に』

6月30日   

 そろそろ打撃団について書こうかと思う。そうあらためて言うことでもないかもしれないが、僕がしばらく書くことをためらっていたことは確かだ。
 今年の一月、世田谷パブリックシアター公演を最後にヒダノ修一が打撃団を離れた。東京打撃団として産声を上げてから三年半、一月の公演はこれまでに一番の評価を戴いていたが、幕は突然静かに落とされた感じだった。その後、ヒダノと入れ替わり熊谷修宏(くまがい のぶひろ)が参加することになり、打撃団の五人編成は変わらずに再スタートする運びとなる。
 メンバーが替わったのは一人だが、ヒダノ曲をメインにこれまで叩いてきたので、それも変わることになり、ほとんど新グループの誕生に近いものが僕たちの気持ちの中ではあった。
 一月公演の後、打撃団の仕事がまったくなかったので新生する為の稽古時間は充分にあった。
 ヒダノが抜けて何が変わったかと言えば、それはメンバーの自己主張の強さだろうか。例えばこれまでの稽古で言えば、曲作りとなると林田博幸と村山二朗はじっとりと討論を始めるが、そこにヒダノの一言で終止符を打たれることが少なくなかった。そのヒダノがいなくなり、林田と村山の討論は水を得た魚のように終わりをなくし、それに血液型Aの佐藤健作までもが業を煮やして加わり、弱冠二十歳の熊谷も参加する。僕が二十歳の時は太鼓を始めたばかりで、先輩に対して反論する言葉を知らなかったが、熊谷は違う。太鼓を始めたのも早かったせいか、すでに自信を備えているので、言いたいことははっきりと言う。僕も煽られて、つい口を開いてしまう。つまり全員が、時として、留(とど)めることを知らない状態になるのだ。
 よく言えば、それだけ新生打撃団に皆が情熱を注いでいたことになるが・・・。
 五月のレコーディングと、六月の公演を目標に稽古は続いたが、六月四日くにたち公演本番直前まで、僕はずっと何かを溜めていた気がする。それは、皆がみなそうだったのかもしれないが、とにかく舞台の幕は上がった。
 90分間弱、そのほとんどが新曲となるこの舞台、僕はこの日のために唄を作った。鬱屈とした状況に追い込まれないと僕は唄が出てこない質のようだ。それが『鼓衣(こい)』。もう一曲の『萬来(ばんらい)』は、桶太鼓と笛の『万事如意(ばんじにょい)』を五人の桶太鼓用にリメイクしていたら、全然雰囲気が違う曲になったので名前も変えたものだ。
 新生打撃団の誕生に最も貢献したのは林田曲だが、僕は彼の曲の演奏で、他メンバーと僕のノリが違うので苦労した(今もしているけれど)。幕が下りて、僕はまだ納得いかない部分が多かったが、意外にもお客さんには好意的に受け入れられたようだった。
 くにたち公演の後、もう一度構成曲等を練り直し、広島公演ではお客さんの反応も思いの外上々で、これならこの五人でいけるかもしれないと、僕もやっと少し納得がいった。
 代表の平沼の言(げん)を借りれば「(公演後の反響が)前の打撃団にもなかったいい手応え」があるという。僕には違いがどこにあるのかよく判らないが、裏に危うい緊張感を含む舞台から生み出される僥倖(ぎょうこう)に近い匂いを、観客はかぎ取る嗅覚を忘れていないのではないかと思う。東京打撃団は今、多くの方にかぎ分けてほしい。

    
               作詞・曲/富田和明     
               琉球語訳/与那嶺一族 
              採譜協力/村山二朗

 
 
  ちむ てぃーち ちぢみに まとぅいてぃ
  たたち たたちれ はじむん くぬ くい

  生きち いりば なーら うとぅすん
  打ちてぃ いぬちぬ くい に ひちまり

  打ちてぃ いぬちぬ くい に ひちまり

  かーじに ゆらりてぃ 
  叩ち 叩かな   歌ん 歌らな
 

  こころ ひとつ つづみに まといて
  たたき たたかれ はずむよ この鼓衣

 生きて いればこそ 涙 こぼれても 
  打ちて いのちの 鼓衣に つつまれ

  打ちて いのちの 鼓衣に つつまれ

  風に ゆられてな
  叩けや 叩け  歌えや 歌え


※舞台では琉球語のみうたった。最後の二行分も今はうたわず


『たいこドン 出前一丁』

5月29日 

 いまさら役者になろうなんて絶対に考えないけれど、舞台の上でしゃべるのはやっぱり好きだ。そして喋るからには笑いがほしい。笑いのない舞台には糞だけ残して立ち去りたい性分ではある。
 新宿駅南口改札から歩いて7分、超近代的な建造物に取り囲まれながらもプーク人形劇場ビルは必死にその足場を確保し、立ち誇っているように見えた。この地下に、小さいながらも照明音響幕類緞帳、そして迫(せり)までも完備する劇場がある。舞台に立って感じるのは「子供たちとどうぞお話しして下さい」と言わんばかりの親密劇場空間であることだ。これは演者として嬉しいことだし、三歳と一歳の子を持つ父としては、こういう空間で子供に太鼓を体験させたいと考える場所だった。
 特別出演の人形は、太鼓の中から生まれたので「ドンコちゃん」と名付けられ、渡辺真知子さんが操る。まだ今回は人形との絡みは多くはなかったが、今後「ドンコちゃん」がもっと活躍する場面が登場すると思う。公演の半分は子供たちと話をしながら進める舞台で、その呼吸をつかむのが難しさと喜びにつながる。二回公演の一回目は少し緊張したが、二回目は楽になれた。太鼓は初顔合わせの井上智彦さんに手伝ってもらい叩いた。『てんドン カツドン たいこドン』はすべての人々の、自分の中の子供たちと出会うコンサートにしたい。これからどんな場所へでも持って出かけ、叩き歌い、話したいものだ。

       

              作詞・曲/富田和明    
 

 遠い 昔に きいた あの音
 今も ひびくよ この胸の中で 
 僕が 生まれて かあさん 笑った
 あふれる いのち つなぐ やさしい鼓動
 
 ドドドン ドドドン きこえる あの音
 ドドドン ドドドン きこえる あの音

 おはよう こんにちは おやすみなさい
 だいじょうぶ ごめんね ありがとう
 海の 風が はこんだ あの声
 波に ゆられて 右に 左に

 ドドドン ドドドン きこえる あの声
 ドドドン ドドドン きこえる あの声

 空を 見上げれば おひさま きらり
 夜は お月さま 星たち かがやく
 あの音 あの声 この空のはてまで
 いつも きっと そっと きこえてるだろう

  ドドドン ドドドン かあさんの ひびき
  ドドドン ドドドン きこえる あの音

  ドドドン ドドドン きこえる あの音


※上写真/5.12〜14 東京打撃団CD録音作業現場。御用邸にほど近い、神奈川県葉山町文化会館ホール舞台にて。(左・林田博幸 右・佐藤健作 撮影・富田)

※東京打撃団ファーストCDは、レコーディングもトラックダウンもすでに終了していますが、発売は未定

 


インターネット版 『月刊・打組』1999年 6月号 No.47

電網・打組、富田へのご意見、ご感想、ご質問は、

Eメール utigumi@tomida-net.com まで

メニューに戻る