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富田和明的個人通信

月刊・打組

2000年 2月号 No.53(2月29日 発行)

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キラメキざわめき友情芽生え』

2月24日 

   

 仕事場となる劇場・会場への太鼓搬入セッティングが終わった頃に、電車で現地入りし、道具の確認+リハーサル&本番を行う、そして片づけなしでさっさと現場を後にできればどんなに楽なことだろう。しかしこれが許されるのは特例の大御所太鼓打ちだけであって、我々平民太鼓打ちは車で太鼓を現地まで自ら運び、搬入仕込み本番搬出そして車移動とすべてこなさなくてはならない。車を運転できなければ、まず仕事ができないのが太鼓打ちという職業である。
 二十歳の秋に佐渡ヶ島に渡り、当時の鬼太鼓座に飛び込み入座した話は前にも書いたが、入って一ヶ月が過ぎた頃、車の免許を取らせてもらうことになった。
 すぐ明日にでも座を辞めてしまうかもしれない新人をよく教習所に通わせたと思うが、別の思惑もあったのだろうか、とにかく島では車は必需品なので僕としては大変ありがたかった。
 片道六キロになる区間を走って通った一ヶ月後、僕は免許証を手にした。
※初めて運転した車が、この佐渡國鬼太鼓座カー。左写真は1976年の秋 佐渡駅伝大会出発の朝  下写真の人物は山野氏 いづれも提供/山野實
 それから数年後には大型免許を取り、座や鼓童の四トントラックそしてマイクロバスの運転手としても活躍(?)したわけだが、もちろんこれは自分の車ではない。個人で仕事をしているわけではないのでグループ所有の車だった。

 鼓童を離れて中国留学中、ビールを飲むグラスを握る時間は長かったが、車のハンドルはまったく握っていなかった。
 帰国後数年を経て再び太鼓打ちの道を歩み始めんとした94年10月、二尺の宮太鼓を浅野太鼓店で作ってもらうことを決め、それを乗せる車をどうしようかと考えていた矢先、運良く義理の弟がハイエースロング中古を、余っているからと、プレゼントしてくれた。それが僕の車・第一号だった。
 広い荷物室にぽつんと、しかししっかりと二尺の宮太鼓が座っているのをみて「よし、また(太鼓打ちとして)やってやろうじゃないか」と闘志を燃やしたものである。

 その年の年末、初めてのマイカーで途中泊まりながら淡路島に里帰りしようと、ルンルン気分でカミさんと二人で当時の住まいだった東京・阿佐ヶ谷を出発した。環八を下り東名高速に乗ったとたん、何だかおかしいことに気がついた。気持ちが落ち着かず、冷や汗がじっとり背中を流れる。
 自分ではまったく意識がなかったが、六年間の運転ブランクが大きく僕を変えていたのだ。特に富士川を過ぎてから静岡までいくつか続くトンネルが恐怖のどん底だった。まともにまっすぐも走れない自分に愕然とした。
 静岡でインターを降りホテルで休んだ後、淡路行きは断念し、翌日東京に引き返すことにしたが、快晴の銀富士を横目に、やはり高速道路走行恐怖症は続き、30分走っては休み、を繰り返し途中三回も長い休憩を取りながらなんとか用賀までたどり着いた。
※初めてのマイカーに乗る笑顔の私と、アートウィル代表・平沼仁一(東京・矢口養護学校前で94年11月)
Photo/YAMANO.Minoru

 自分で車を運転できない太鼓打ちはメシが喰えるはずがない。
この時は、「このままでは太鼓打ちも諦めなくてはいけないのか」と真剣に悩んだものだ。しかしその後、半年以上かけて少しずつ恐怖症が消えていった。慣れと時間が一番の学習方法なのだ。
 器を用意するとそこに物は集まってくるようだ。最初は一台だけだった太鼓も少しずつ数が増えていった。一台目のハイエースに乗ること二年余り、事故でやむなく廃車処分となる。速急に捜し求め二台目を手に入れたが、第二号もハイエースロングだ。
 この車で走ること三年あまり、中古なので最初一年は故障の連続だったが、思いきって大修理をしてから後はすこぶる快調に走っていた。
 しかしやはり道具の方がどんどん増えていく。まったくもって車に入らなくなってしまった。
 稽古場も倉庫も持てるはずのない都会の零細太鼓打ちは、車の中が倉庫になる。倉庫が限界になりやむなく、もう少し大きな車を購入することにした。そこで今回、新車という英断とあいなったわけである。
 太鼓打ちの歴史と車の遍歴は、鉄道の線路のように仲良く一緒に走っているように思える。
 二千年二月吉日 新車が到着。翌朝八時、淡路島での太鼓アイランド淡路練習に向わんと出発した。
 ところがそこで雪の情報。名古屋も20年ぶりの大雪とかで、関ヶ原手前約25キロ地点で渋滞開始。並の渋滞なら四、五時間で抜けるが、今回はしぶとかった。その最初の渋滞を抜けるだけで15時間以上かかったのだ。
 渋滞の途中、日が昇っている間はまだ余裕があった。運転席で淡路での新曲『島海道2000』の歌を書き直したり、笛を吹いたりしていた。かと思えば隣に大型バスが停まった時には、お互い暇なので僕は遊びに行き、乗客は台湾から来た観光客たちで京都に行くという。雪を初めて見たと大はしゃぎ。腹を空かせていた僕は団子餅を分けてもらった。
 そうこうしてもまったく動く気配がない。しかし、ひょっとしたら急に動くかもしれない。なので待っていなくてはならない状態。食べ物がないのは我慢ができるが、車の燃料がなくなってきたのには焦った。外は小雪のちらつく0度。エンジンをかけていないと寒くてたまらない。十キロほど先には養老サービスエリアがあったが、その十キロが動かない。近くに並んでいるトラックの運ちゃんに頼んで、動くまで助手席に乗せてもらい暖をとった。
 渋滞が解けだした時間ははっきり覚えている。深夜の1時44分。
 パトカーに乗った警官が「起きろ〜」と叫びながら雪玉を投げつけクラクションを鳴らしながら反対車線に現れたのだ。僕は世話になったトラックの運ちゃんに素早く礼を言い、助手席から飛び降り、凍っている路面を滑りながら自分の車に戻りエンジンをかけた。前に停まっているトラックの運転手を起こすのに、思いっきりクラクションを握り拳で叩いた。渋滞が長引けば運転手が眠ってしまい、また渋滞が続くのだ。
 その後も渋滞は数カ所あり、途中SAでの休憩は30分間のみ、一睡もできなかった朝の終わり、夜明けのチェーン外しは滋賀県栗東を過ぎてからだった。

 淡路島に着いたのは出発翌日の朝九時過ぎ。ずっと車内で過ごした25時間の楽しい旅が、きらめく瀬戸内海の波のざわめきと共に終わりを告げた。
 新車の慣らし運転にはちょっとハードだったが、この車と一緒にこれから仕事をしてゆくんだなあと、熱い友情が芽生えてくるようでありました。
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インターネット版 『月刊・打組』2000年 2月号 No.53

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