インターネット版●

富田和明的個人通信

月刊・打組

2000年 9月号 No.59(9月28日 発行)


壮快!スーパードライ 旨い

8月23日

 

 ヨーロッパ一ヶ月ツアーから帰った後、急激な気温の変化と時差ぼけの要因もあっただろうが、とにかく疲れがドット吹き出し、なかなか以前の精神肉体状態に戻れなかった。
 最初は二、三日も休めばいいだろうと思っていたのだが、ちっとも回復しなかった。どこか悪いところがあって体が病気というのではなく、気持ちが立ち直らなかったのだ。日本での公演本番がもっと早い時期にあれば無理矢理にでも立ち直っただろうか?いやそうでもないだろう。こんなに気力が落ち込んだことも珍しいことだ。あれは何だったんだろう?
 それでも十日もすれば徐々に回復したのか、アサヒビールロビーコンサートのリハーサルで打撃団メンバーと久しぶりに顔を合わせ、また、イランのラリさんや、中国の孟さんとも約二ヶ月振りの再会をし、本番前日にあの込みいったジョイントの曲を思い出し稽古をするという、スリリングな時間を過ごした事が特効薬になったようで、僕の頭と体が通常モードにやっと引き戻された。
 
 迎えた翌日のコンサート本番、ロビーコンサートという不思議な空間でのステージが良かったのかもしれない。普段は普通のロビーに特設の細長い舞台が組み立てられ、その上手と下手に客席の椅子が並べられる。満席の久しぶりの日本のお客さんに囲まれ、すっかり僕は癒された。
 やっぱり日本はいい。
 司会者から名前を呼ばれて舞台に上がっていく様は、リングに向かうプロレスラーにでもなった気分。そして演奏が終わった後の、両側から包み込まれるような、押し寄せる大波のような拍手。いつもの知った顔ぶれにもたくさん会えて嬉しかった。
 終わった後のビールも旨い。ヨーロッパでは止めていた酒だが、僕が一番好きなスーパードライの本拠地(ここは本社ビルがあるところで、その横にビアレストランもある)に呼ばれて、飲まないわけにはいかない。一杯、二杯、「うま〜い」たまらなく旨かった。日本はいい。
 このコンサートが終わった後は、僕も忙しい毎日を過ごした。これまでの空白を取り戻すかのように稼働し始めた。

 

 


越後の秋二つの実り

9月10日+15日

 

 九月に入って早々に新潟県で二つのコンサートが開かれた。一つは、長岡で行われた新潟県曹洞宗青年会20周年記念事業『万灯法要+東京打撃団コンサート』で、もう一つは、越路町町制施行45周年記念事業『東京打撃団 和太鼓コンサート(共演こしじ巴太鼓)』である。

 曹洞宗の記念事業では、寺と太鼓は切り離せないもので、この機会に若い御坊さんたちと何か一緒に出来ないかということになり、お寺にある鳴り物をみなさんに持ち寄ってもらった。この楽器を使ってジョイント(と言うのも変な気がするが)の世界を作った。
 鳴り物は、お寺での一番聞き覚えのある鐘の音・大磬(けい)、その小型・小磬、片手で持って叩けるように棒が付いた小さい座布団の上に乗った鐘・インキン、美しい音色のレイ、シンバルの大きい形をしたハツ、鈴、鐘、まだまだ鳴り物の数と種類は多い。こういう珍しい楽器を前にするだけで僕は嬉しくなる。もちろん太鼓もある。これらの音によって人々の心を癒し、死者の霊をも鎮めようとするのだろう。
 他にも最大最強の武器?ではなくて、楽器?でもなくて、音を出すものに、読経する声(喉)、がある。声に太鼓に金属鳴り物、この三種の神器(佛器?)で宗教世界に入ってゆける。
 僕が太鼓を叩くのは宗教をやっているわけではなく、単純に音を聞いて奏でて気持ちよくなりたいから音を出している。御坊さんたちも音を出しているが、奏でようとしているものは音だけではない。それ以外の気持ち(心)の部分の方が大きいのではないかと思うのだ。そこが違う。
 ただし、音楽芸能、宗教、政(まつりごと)は紙一重の世界で、境界線をはっきりと引けるものではない。今回改めて宗教を天職とする人々と接し、その音楽世界に触れてみると、よりそのことを感じさせられた。そして、僕らが日常的に接している楽器(太鼓)の原点と触れた時間がそこにあった。

 

※『万灯法要+東京打撃団』公演及び準備の模様は9月18日(月)17:00〜17:30、BSN新潟放送でTV放映されました(新潟県内のみ)。写真は、ラストのジョイント場面(新潟県曹洞宗青年会20周年事業事務局提供)

 

 

 新潟県越路町は、三波春夫さんの故郷であり、日本酒党の方なら銘酒『久保田』『朝日山』の酒蔵・朝日酒造がある町と紹介した方がいいかもしれない。また雪の降る量も半端じゃなく、家は三階建てが多いが、一階が倉庫で二階に玄関があるほどの豪雪地区。
 僕が40歳になった誕生日から数えてちょうど三年間、今年の春まで月一回のペースで太鼓指導に通った町だ。
 その『こしじ巴(ともえ)太鼓』メンバーは、当初から女性中心でいこうとなっていたので、現在もほとんどが女性で二十代から六十代までと幅広い。
 グループの名前になっている「巴」は、鎌倉初期にこの地で亡くなったと言い伝えのある巴御前(木曽義仲の妻)の名にちなんでいて、町の中心地も巴ヶ丘と呼ばれているところから付けられた。
 メンバーは、家庭では子育て真っ最中だったり、また子育てに一区切りついたところだったり、御主人や御両親の世話をしながらの方ばかりで、そんな中、時間を工面し、練習に参加し続けることは簡単なことではない。
 それも太鼓の練習は、年輩の方にとって結構肉体的にもハードで、自分の母親とか上さんが練習に通ってきていると想像すると、これは大変なことだということがよく解る。皆さん本当によく続けてこられたものだと思う。
 稽古場として使っている体育館は天然の強力冷暖房完備で、夏はともかく僕には冬が辛かった。さすが越後の女性は寒さにも強く根を上げず、平然と冬でも汗をかいて太鼓を叩いていたが、僕の方は、ホッカイロを足の裏とひざと腰に計五個張って何とか寒さをしのいでいた。若い時に佐渡で鍛えたことは何の役に立っているのか?今は下半身冷え性でいつも悩んでいる。でもこの頃はやっと冷たい牛乳も飲めるようになったけれど‥‥、いやまった!冷え性の話ではなく、巴太鼓の話。
 秋は米所にとって一番の嬉しい時ではないだろうか。一度、練習場から旅館のある町まで一時間以上をかけて歩いて帰ったことがある。信濃川に注ぐ渋海川を左手にそよぐ黄金の田園地帯、その向こうの山に落ちる夕陽、静かに暮れゆく大地、迫る闇を追うように二両編成の列車が汽笛を鳴らして駆けてゆく。涙が出そうになるくらいの日本の秋が、そこにあった。この後、ゆっくりと越後は冬に向かう。
 
『越後女のなぁ 心意気 焦がし焦がされ雪蛍 ここに生まれて 命を燃やす 山よ川よなぁ 越路の里よ』(太鼓組曲「雪ぼたる」挿入歌から)
 
 一つの宴は終わったけれど、粘り強く越のある性格そのままの太鼓をこれからも打ち続けていって欲しいと願う。

 

 

※上写真/こしじ巴太鼓「古志の風」演奏場面、下写真/その公演の打ち上げ会場にて

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インターネット版 『月刊・打組』2000年 9月号 No.59

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