インターネット版●

富田和明的個人通信

月刊・打組

2001年 2月号 No.63(2月26日 発行)

 


 この二月はコンサートがなく、ほとんどワークショップで過ごしていましたが、時間があるようでもなぜだか時は押し迫り、下旬に体調を崩してしまったこともあり、通信の方は、10年前に書いた文章を掲載させていただきます。

  これは当時、ごく親しい人、お世話になった方に御報告がてらに書いて冊子で送っただけなので、一般には公開していません。それまでの人生、幸いにも大病もケガも知らず、初めての入院と手術が、北京で、でした。

  僕の中国留学は一九八八年九月・中央民族学院から始まりますが、これはその三年後、中央音楽学院での留学を終えて、最後の一年間を過ごすことになる延辺大学へ入学するまでの、夏休みに起こった出来事です。

 

北京 1991.8


 北京にある中央音楽学院での留学を終えた僕は、二週間日本に一時帰国した後、この夏、N協会のアルバイトで北京語言学院短期留学生の団長(40日間のサマースクール生のまとめ役・添乗員ではないが世話係?)をやらせてもらうことになり、七月一九日、再び北京に戻ってきた。

 語言学院での生活は忙しい毎日であったが、それほど大きな問題は起こらず、北京の燃える夏をビールと共に楽しく過ごしていた。

 ところが八月四日の午後、学校が企画した週末大同(ダートン)旅行にみんなと参加している途中、突然大便がしたくなり、上華厳寺の石段を素早く駆け下り、便所に入った。良くない便が勢いよく落ちていく。その後は正露丸を飲んでバスの出発時間まで売店で過ごした。
 これが今回の病(やまい)の始まりである。


 元をたどれば、五年ほど前にイボ痔に気がついたことがあり、病院へ行ったことがあるし、中国留学の前にも診察してもらったが、その時は医者から特に問題はないと言われていた。

 去年の一二月にも一度、下痢と発熱があり、肛門上部が腫れたことがあったが、病院で薬をもらい、お尻を洗っていれば二日ほどで治った。というか腫れがなくなっていた。
 そしてこの日を迎えた。

 

 ホテルに戻って休み、夕食を抜き、シャワーを浴びていると、以前と同じような肛門上部の腫れに気がつく。ベッドで横になっていると、体温が上昇していくのを感じた。

 その夜は列車に乗って北京に戻ることになっており、頭をフラフラさせながらも列車に乗り込む。そして蒸し暑い硬臥(二等寝台)の上段ベッドに体を押し込めた。22時頃、列車は走りだす。体温を計ると38度5分あって、眠れない。

 北京駅には朝の五時半に着き、学校に戻る。一日薬を飲んで横になっていたし、座薬も使ったが、腫れと熱は治まらず、翌日、中日友好医院へ行った。

 

 

 肛腸科(肛門科)で待っていると若い男の先生が助手のような人を連れて診察室に現われる。二人で患部をしばらく眺めたり触ったりした後、

「はい、いいですよ」と言われ、僕はズボンをもとに戻す。

「腫れが大きいですから入院して手術をしなくてはいけませんね」

 胸にWと書かれた名札を付けている先生は無表情で言った。

「はあ?」

 今度も二、三日休めば大丈夫だと思っていた僕は、どうも納得がいかない。何度も「本当に今手術しなくてはいけないのか」と確かめる。W先生は、何度も「必要がある」と答える。

「入院したとして何日ぐらいかかりますか?」

「そうですね、10日間ぐらいかな」

 まだ僕は半信半疑でその声を聞いている。中国に来て初めて仕事(アルバイトだけど)らしいことをやりだしたところであり、これを中断させてしまうことになるのは、どうにも情けない。皆に迷惑をかける。団長失格である。この場は何日か様子を見ることにしてもらい、診察室を出た。

 

 友好医院には日本人の看護婦さんが一人いる。

 北京に来てまだニケ月だという若いMさんに、病院の設備や入院の準備、お金の問題、僕の病気について質間をした。

 もし手術ということになったら、本当にこの北京でやってしまってもいいのか、非常に不安だった。
 盲腸だと言われて切ってみると違っていた、胃炎だと言われていたが実は肝炎だった、こういう病院での誤診や手術の失敗例などを、これまで留学生仲間からたくさん耳にしていたからだ。

 しかし、Mさんのやさしい声を聞いていると僕は、ここでやってもいいのではないかと、決心と言えば大げさだが気持ちが変わっていくのを感じていた。

 学校に戻り、まだ最終的には踏ん切りが付いていなかったけれど、そうした場合の団長としての引き継ぎや各方面への連絡など、最低限の準備はしておくべきだと思い、動く。

 それに入院費も用意しなくてはいけない。

 語言学院の中に中国銀行があるのは便利だが、両替にかかる時間の長さは素晴らしく中国的だ。熱は全然下がらないし、僕は観念してきた。手術を同じ受けるのなら、早く終えて早く学校に戻りたいと思った。
 夜、股間の腫れがズキズキして心臓の鼓動が激しく、またもや眠れない。

 

 

 翌日の八月七日、学校のことはKさんに臨時団長をお願いし、入院の準備をして友好医院に向かう。

 四階の待合所で先生が来るのを待っていると、とても若くてきれいな女性がやって来て、このZ先生が僕の担当医になったのだ。

「誰が手術をやるんですか?」僕は最初にこのことをたずねると、

「L主任がします。それと私が手伝います」

 Z先生はゆっくりと答える。彼女の陰りのない、どこまでも楽しそうな眩しい笑顔が、この時はまだ僕にとっては不安だった。L主任は57歳、経験30年、と間いて一応、安心した。


 手術をすぐにでもするのかと思っていたが、腹れが大きすぎるので、少し小さくしてから切ったほうがいいという。

 入院と決まってから、ベッドを捜す。一時間ほど待つ。

 昨日は外国人用の部屋があると言っていたが、今日は空いていないというので、一般の病棟に入ることになった。

 病棟は二階から四階までが一般病人用で12、13階が中国人幹部用、14階が外国人用となっていて、僕は肛腸科がある七階に行く。その前に一階で保証金3,000元(約78,000円)を先ず払う。このお金がないと入院はできない。一般中国人の給料15ヶ月分に相当する金額だ。

 これまで大きい病気や事故に遭ったことがなく、手術も入院も初めての僕は日本の病院のことを知らないので、比べることはできないが、中国の場合、ほとんどがこの保証金がないと何も処置してもらえない。
 社会主義国なので医療費は仕事についていればその組織からもらえることになっているが、それには病院の領収書が必要で、その為には先ず自分でお金を払わないといけない。

 目の前でほとんど死にかけている場合は例外となるが、そうでなければお金が優先する。お金を準備したり、複雑な手続きに手間取り、時間をロスして病院に運び込まれても多くの人が命を落としているし、手当てが遅れたことが致命傷となった話しもたくさん聞く。

 僕が聞いた話しでは四、五年前、ある日本人留学生も3,000元の持合わせがなかった為に処置が遅れ、命を落としている。この話しを日本人看護婦のMさんにも昨日したが「外国人の場合はこんなことはありません。少なくともこの病院では聞いたことがありませんよ」と否定された。
 とにかくこのお金を僕は払った。お金を払った窓口で、

「一日の入院費はいくらなのか?」と質問すると、

「ここでは押金(保証金)だけを管理しているから、他のことは知らない。会計の窓口で聞け」おばさんがこちらの顔も見ずに答える。

 この部屋には八人も係員がいてそんなものなのかと、今更ながら呆れた。

 七階の三人部屋に案内され、部屋に入る前に、靴も服も着たままで体重を計り、ベッドの上で血圧、体温、脈を調べる。

 

「今日は何もないから、ここで休んでいなさい」とW先生が言う。

 この部屋がとくに悪いとは思わなかったが、外国人用の部屋はどうなっているのか気になり、外人診察所へ引き返し婦長さんに聞いてみた。

 外人用は全部個室で、食事もいいという。今日は七階に入ったけれど個室が空いたら教えてください、とお願いすると、ちょっと待ってくださいと言われ、後で、「12階でもいいか?」とたずねられる。
 その部屋を見せてもらうと、ちょっと狭い目のビジネスホテル・シングルルームという感じで、エアコン、バストイレ、カラーテレビ付き、共同の冷蔵庫まであり、電話も目の前のナースステーションにあった。学校の寮と比べると非常に快適に見えた。

 12階は中国人幹部用で、設備は外人用と同じらしい。

 僕は、ここに引っ越すことにした。中国は何でもこちらから行動しなくてはいけない。黙って相手の言うままにしているとだめだ。

 新しく個室に移って最初に食事のことを聞かれる。

 中華コースと洋食コースがあるという。僕は「御飯が食べたいから中華にしてくれ」と言うと、食事係の女の子は「洋食も昼・夜、御飯だ」という。

「それでよく洋食コースなんて呼べるわね」

 隣で話しを聞いていた婦長さんがそう言って笑った。

 朝にお粥さんが出るのが中華、食パンにジャム、マーガリンがつくのが洋食だ。とりあえず洋食コースにする。

 食事は夜からになったので、お昼は一階の売店でクッキーと飲み物を買ってきて食べた。売店に各種酒が並んでいるのに驚く。

 二時に検温がある。38度。動悸が激しい。

 午後に医者が来ると聞いて待っていたら、四時を過ぎてW先生がつまらなさそうな顔をして入って来た。

「何も薬を飲まなくていいですか?」と僕が聞くと、

「何も薬を持って来なかったのか?」と逆に問われる。

「ここでは入院するのに自分で薬を持ってくるのか?」僕はまた聞く。

「うちは毎朝看護婦が地下にある薬部に薬を取りに行くことになっていてね、きみが来たのは昼前だっただろう。だから今日は薬を用意していないんだよ」

「でも熱がありますからしんどいです」

「熱は39度までなら放っておいても大丈夫だ」

「でも、眠れません。もう三日もこうなんです」

「う〜ん‥‥‥、じや、何とかするよ」W先生は渋い顔をして出ていった。

 

 20分ほどして看護婦さんが点滴の道具を持ってくる。

 僕の左手中央の血管に針を刺しながら看護婦さんは聞く。

「あなたは心臓大丈夫?」

「はあ?」

「ここにね速度を調節するところがあるから、自分で調節して点滴してね。それでこの瓶が終わったら、そこの呼びベルを押すこと」

「どのくらい時間が掛かるんですか?」

「ゆっくりやると七時間くらい掛かっちゃうから、スピード上げたほうがいいわよ。今からだと夜中になっちゃうもの」

「ハイ‥‥。あっ、僕、トイレに行けません」

「そうね‥‥、じゃシビン持ってきてあげるから」

 夕食は五時に運ばれて来て、海老のテンプラ、キャベツのスープ、キューリのサラダと御飯、蒸しトウモロコシニ本とスイカ。なかなか豪華なこの食事を右手だけで食べる。

 

 食事の後しばらくして廊下が賑やかになった。

 看護婦さんたちと男性の職員たちが、楽しそうに大声出して走り回っている。職員宿舎にシャワーがないので(あっても数が少なかったり汚いからか)、家族連れで、夜ここまでシャワーを浴びに来ているのだ。

 外の音は聞こえにくいが、廊下の音はすごく響くのでうるさい。

 

「静かにしてくれ!」

 

 怒鳴りに行きたかったが、動けないので我慢する。
 ブドウ糖500?が二本と消炎液250?一本を流し込むのに九時までかかった。
 点滴は生まれて初めてだったので慣れないせいか、針を抜いた後もかなり左手がしびれている。

 ナースステーションで電話をかけようとしていたら、そこに風呂上がリの子供が、ズボンからオチンチンを出したまま小便をしようとしていた。それを見つけた看護婦さんが

「だめだめ、そんなところでしちゃ」

と手で子供を近くに呼び、横にあったポットのフタを取ってそこに小便を入れさせ、それをすぐに流し台に捨てた。

 あまりに手際がよかったので僕はしばし見とれてしまう。

 11時、電気を消して眠ろうとしていると夏の空で、カミナリが激しく駆けだした。

 

 

 翌朝、六時半に起こされて血を注射器で採られる。七時に検査の為、小量の大便と尿を提出する。

 七時半、朝食。温めた牛乳、ゆで卵二個、食パンニ枚。

 八時、L主任がZ先生、W先生を引き連れて来る。L主任は眼の鋭い痩せたおばさんという雰囲気だ。

 手術は明日の朝と決まった。

 

 九時半から点滴が始まる。今日はブドウ糖が三本と消炎液。昼飯は二時。カレー風味の貝柱炒め、エノキ茸のスープ、トマトとキューリのサラダ、スイカと御飯。

 夕方四時半、また血液検査。

 今度は手の指から血を採る。今朝に採ったはずなのに、検査の種類が違うからこれも必要だと言う。できたら耳タブを切ってくれないかと僕はお願いをしたが聞き入られず、やはり左手薬指となった。

「この部屋にはカラーテレビもあるのか」

 検査に現れた男はテレビに目線をやりながら、刃物を一気に突き刺す。

 

 プシュツ!

 痛い。血は滴となって指の頭に浮かび上がる。

「他の国でもこんなやり方をしているのか?」

「これは国際的にも認められたやり方だし、一番正確なんだ」

 とにかく男は一方的に行ない、風のように去っていく。

 五時に夕食。ピーマン肉炒め、冬瓜椎茸炒め、トマトキューリ入りソーメン、スイカと御飯。

 食欲はまったく衰えず何でも食べてしまう僕は、この他にもパン、果物、ジュース類など暇があったら口に入れている。

 夜九時を過ぎて電話を掛けようとしたら、目の前でその電話が鳴り、男好きの顔立ちをした若い看護婦さんが受話器を取った。

 


「誰あんた? エッ、私知らないわょ、誰? どこで会ったって‥‥? あなたの名前なんか知らないもの。 ふふ、ウソよ、ウソウソ。 知ってるわよ。それで‥‥、何の用事なの?(ここまで話すのに五分かかった) う〜ん金曜日ネェ‥‥わかったわ‥‥、考えとくから‥‥‥‥。 今ね一人電話を待ってるのよ、ウソじゃないって、本当よ‥‥ だから、考えとくから‥‥‥ふふふ‥‥じゃ、また電話ちょうだいね。今度は名前覚えとくから」

 12階のナースステーションで電話はこの一本しかない。僕が使えるのもこの電話だけだ。10分間そこで彼女の電話が終わるのを待った。

 夜、なかなか眠りに付けない。

 一日横になっていたからだろうか、それとも明日の手術のせいなのか‥‥。今夜も稲妻は走っている。

 

 

 八月九日、夢うつつの中で目覚めた。

 七時だった。昨夜の電話の彼女が漢方の煎じ薬が入ったびんを持ってきて「これを飲め」と短く言う。

 その彼女が七時半再びやってくる。

 

「きょう、あなた手術するんでしよう」

 片手に大きい白いカップを持ち、もう一方の手はゴム管の先をつまんで、けだるそうに聞く。ゴムの管はコップの底につながっている。その管の先を僕の肛門に入れて浣腸をするようだ。

 しかし、彼女が管を僕のに突っ込むと、むりやり押し込んでいるだけなので痛くてたまらない。僕は管をかしてもらって

「自分で入れてみるから」とやってみると、簡単に痛みもなく入った(当たり前か)。

 そして彼女は早く終えてしまいたいものだから、グッとカップを上に挙げる。カップを上に挙げると挙げただけ圧力が掛かり、一気に薬が来てしまって、僕の方は気持ちが落ち着かない。ゆっくり、ゆっくり、と僕は彼女にお願いした。

 それと同時に朝飯が運ばれて来た。

「朝飯を食べてもいいのか?」コップを挙げたままの彼女に聞くと、

「今日はだめよ」と笑わずに答える。

 八時過ぎ、別の看護婦さんが「手術よ」と言って呼びに来た。

 僕はその看護婦さんの後に付いて肛腸科のある七階まで歩いていく。

 

 手術室はかなり広く、中央にベッドだけが寂しそうに置かれてあった。そこでしばらく座って待っていると、L主任、Z先生、看護婦さん一人と見習の医師一人、の合計四人が入ってきた。

 

 

 看護婦さんは、窓にかかっていた薄いブルーのカーテンを開けた。外の光が部屋に射し込む。

 先生方は薬や道具の用意をしながら、白衣の上に手術用のブルーの服を着て、頭がスッポリ入る帽子と大きいマスクを付ける。ゴム手袋は付けない。素手だ。

 僕は言われるまま、ベッドに横になり、右向きになり、膝を抱えられるくらいまで曲げ、両手はベッドの端を掴んだ。

「動いてはいけませんよ」とL主任が静かに言った。

 Z先生が僕の膝を押さえ、主任が消毒をしながら毛を剃り始める。ずいぶん長い時間かけてお尻の隅々まで剃っているようだ。

 患部までくるとさすがにヒリヒリしたが、まだこの時までは気持ちの良い痛さだった。

 骨髄の窪みを確認して、麻酔の注射を打つ。針を入れる時はわかったが、いつ抜いたのかわからない。鈍い痛みが続いた。その後、患部に局部麻酔の注射を打つ。これは刺すように強烈に痛い。何ヶ所にも分けて打っていった。

 僕は痛みが走る度にベッドの淵を掴む。しばらくして、グサリグサリグサリ、と来た。もう手術は始まっている。

 

 この痛みは耐えきれない痛みだ。

 

 僕は「痛い〜」と声を殺して叫ぶ。たぶんこれは患部を切っているのだろう。しばらくの間を置いてまた、このグサリグサリ、がくる。

 僕は口を開け、顔をしかめベッドの淵を握り締める。主任が「痛いか?」と聞く。

「い‥た‥‥、い〜」と僕は答える。

 

「あんたは毎日酒を飲んでいたか?」主任が手術の手を休めずにまた聞く。

「は、い‥‥。飲、ん‥‥、で、た〜」僕は情けなく答える。

 

 そこへまたグサリグサリグサリ、グサリ、とくる。

 痛い。

 

 眼から涙は出ないが、全身の毛穴から代わりに涙が出ている。その後主任はしばらく募黙だった。時々「よし」、とか「すごくいい」とか呟くだけだ。

 

「さあ、後もう少しですよ、力を抜いて」

 Z先生の声が耳元で聞こえる。

 僕の体はカチンコチンになっていて、痛さで曲げていた膝がだんだん伸びてきていた。

 

「リラックスしないと出来ませんよ、協力してください」

 主任が僕のお尻をボンボンと叩いて言う。そこで僕が少し力をゆるめたところで、グサリグサリグサリがまた来る。この殺人的な鋭い強烈な痛みと、あの喜び溢れたビールを飲む快感とどちらが強いだろうか?

 

 手術好きですか?お酒好きですか?

 

 僕は痛みが走る度、一生懸命この二つをハカリにかける作業をしていた。気がついたら知らない間に主任とZ先生が交代している。

 

 Z先生が僕のお尻の谷間に顔を突っ込んで何かやっている。また、グサリグサリグサリ。管のようなものが入り、先生はぐっと力を入れている。何かを異物に縛った。

 主任が「よし、いいよ」と言った。慢性的な痛みは続いているが、これは麻酔でカバーできている痛みだ。

 

「もう、終わりましたよ」僕の肩に手を置いて主任が言った。

 

 

 僕はやっと脱力することができた。身に付けていたパンツにパジャマ、ハラマキまで汗でビチョビチョだった。

 記念撮影をして、帰りは移動式ベッドに乗せてもらい部屋まで戻る。手術はうまくいったのかと尋ねると、
「はい、順調に終わりましたよ」Z先生はいつものように明るく答えた。

 

 

 

 

 病室に戻ると語言学院留学生事務局のG主任とR小姐が来ていて、これには驚き、僕はなぜだかわからないが涙が一滴こぼれた。


 自分のベッドに戻って痛み止めの注射を尻に打ち、また点滴が始まる(今日から三日間、毎日2000?打つ)。それとペニシリン反応をやってから、午前と午後ペニシリンも点滴に加え、化膿止めにするそうだ。

 薬のせいか全身に気持ちの良いしびれがあり、少し眠ったようだ。

 気がつくとまた昼飯が来ていたが「今日はウンコをしてはいけません」
と釘を刺されているし、まだ動く気分にもなれなかったので食べるのは止めにした。点滴は続いている。


 午後になってどうしたものか自然に肛門を締めてしまう運動が始まった。
 これは先ず予感がある。


 この予感をうまくごまかしてしまえばいいのだが、いきなり来てしまうこともある。そしてそれが一瞬ではあるが脳天までぶち抜く爆発的痛みなのだ。


 人は何か行動する時、また何にもしなくても、、呼吸をするように無意識のうちに尻の穴を締めていたことを改めて教えられる。これが人の道というものだろうか。しかし今は困る。それに特に意識してしまうと、かえって何度でも穴を握り締めてしまう。恐ろしいことだ。

 

 

 翌朝七時前、例の電話の看護婦さんがノックもせず「おはよう」も言わず、部屋に入ってきて「体温」とだけ言い、僕に体温計を渡す。
 泥色のお尻を洗う漢方薬を持ってきて机の上に置く。体温は36.4度。やっと熱が下がった。


 八時に大便をする。

 大便を出すのはそれほど痛くないが、小便のフィニッシュ、最後の決めでどうしても肛門を締めてしまうので、非常に辛い。

 門の近くにゴムが入っていて、お尻を洗う時、ゴムとそれを結んである糸を自分で少し引っ張るよう、Z先生に言われている。

 このゴムが落ちてからが、本当に傷口を塞ぐことになるのだそうだ。傷口を完全に縫ってはいない。患部を触ってみると、以前と同じようにまだ腫れがあるように感じられた。

 お尻を洗った後、電話を掛けて先生を呼ぶ。

 傷口を消毒して肛門の中に炎症止めの膏薬を塗ったガーゼを押し込める。これが痛い。

 その後傷口全体にガーゼをあて、バンソウコウで固定して終わり。痛みで下半身がしびれてしまうので、パンツを下ろしたまましばらくは動けない。

 

 テレビニュースでは海部首相が北京を訪れていることを伝えている。
 入院中暇なのでテレビをよく見たが、午後三時から五時にかけての時間は(夜にもあるが)毎日、日本侵略時代を題材にした映画や番組を放映している。この日くらい止めてもいいのではないかと思うけれど、それが中国の姿勢なのであろう『日本鬼子』の名前が出ない日はない。


 夜八時半から九時頃まで今夜もカミナリが激しく、部屋の明かりを消して鑑賞会にした。

 12階の窓の下には庭園とグランドがあり、その南側には20階建て団地がズラリと並んでいるが灯かりは点っていない。
 住宅難な筈なのに、このように建造されたまま放置されている団地が北京には多く、人が入居する頃にはまた修理が必要だ。しかしこのこととは関係なく、稲妻は神聖に夜空で暴れている。傷口が痛いのとウンコを我慢するのとで、今夜も眠れず。痛み止めと安眠剤を飲んでいてもだめだ。

 

 

 

 翌日。窓の中の青空に入道雲が立ち上がっている。

 


 傷口の消毒は本当に痛い。いつもは塩水しか使わないのに、今朝はアルコールを少し使ったらしく、僕は飛び上がった。

 それと、どうしてもまだ穴を締めてしまう。一人肛門締め技は、ケガをしている自分の足の上に自分で石を落とすようなものだ。

 手術の日から数えて三日目、この日で点滴は終わりだが七時間半かかった。

 

 

 毎日、朝食を食べ、大便をし、肛門を洗って先生を呼び、傷口の薬とガーゼを換えてもらう。

 食後の煎じ薬はコーヒー色をしているが味わってしまうと吐き出したくなるので、一気に飲み込む。

 Z先生が時間のある時はこの消毒の後、一、二時間ほど居残ってくれて、二人で話しをするのが楽しい。だから、二時の昼食の時間がやってくるのは早い。

 

 必殺肛門締めはまだまだ続いているし、穴の筋肉が不完全なせいか、それとも薬のせいなのか、大便は朝しか出ないのにそれ以外にでも、何度でもトイレに行きたい不快感が続いていて、これが少々苦しい。しかし、食欲はあった。

 病院での食事は僕の場合、三食、お盆の上に乗せて病室内まで持ってきてもらえるが、これは外人だけで、中国人は自分で廊下まで出て、自分が用意した弁当箱の中に御飯と副食を一緒に入れてもらうのだ。
 もちろん食事の内容も全然違う。

 

 僕の食事には昼・夕、必ずスイカやハミグワ、メロン、桃など果物が付き、副食はトンカツ、テンプラが多く、刺し身や茶わん蒸しが出たこともあるし、麺の日もある。

 味付けにも気を使っているようだが、メニューは二週間目から同じものの繰り返しになって、少し飽きた。しかしどんどん食べてしまうので、入院してからまた体重が増えてしまった。

 時間があるのでテレビを見て、短波ラジオの日本語放送を聞き、雑誌を読む。

 ゆっくりと少しは歩くが、ほとんどがベッドで横になっている状態だ。まだお尻を下にして座れないから、文字を書いたり勉強をするという気持ちにはあまりなれない。

 Z先生の話しによると、僕の病気は痔ではなくて『急性肛周膿腫』と『高位肛瘻』、なんだそうだ。

 

 

 それで手術は『瘻管掛線術』という、明の時代(1368〜1644)から始まった(本当はもっと以前からあったかもしれないが、『古今醫統』にそう紹介されている)方法を近代的に発展させたやり方で行なわれた。

 これは簡単に説明すると瘻管(病気によって自然に体の中に出来る管、病巣から出る分泌物はこの管から流れ出る)を糸やゴムでくくって切ってしまうやり方だが、これを説明するのは難しい。

 中国人が聞いても専門家でないと理解できない、とZ先生から言われたが、何度も僕はしつこく聞いて、‥‥‥やっぱり判らない。

 とにかく僕の瘻管の半分はメスで切ら取られ、残りの肛門に近い半分は、一息で切ってしまうと失禁状態になるので、輪ゴムの弾力を利用しながら自然に時間をかけてゆっくりと切り、ゆっくりと周りの筋肉を回復成長させるのだそうだ。

 他にも手術では肛門の中と、小さい外痔も切ったという。

 このゴムが自然に落ちるのは一週間から10日後、それでもまだ落ちない場合は麻酔をかけてまたメスで切る。ゴムが落ちてから痛みがなくなり傷口もふさがる。

 手術で麻酔は僕の場合、骨髄に10?と局部に5?打たれた。心臓に負担をかけるので、出来るだけ麻酔の量を減らし、我慢できる痛さであれば普通はこの量でやるそうだ。

 人によっては30?打ってもまだ麻酔が効かないこともあるらしいが、その場合も、これ以上の量は打たない。この病院の肛腸科は漢方と西洋医学を結合させた方法で治療を行なっているが、基本は漢方であり、化学薬品は出来るだけ使わず、人間が本来持っている力を大切にするのだと言う。

 そういう訳でまだゴムが肛門のところに入っているので、痛い。

 夜、特に痛むことがあって、それで眼を覚ます。
 

 ゴムが取れる前にはまた激しい痛みがぶり返すせいらしい。こうして手術後の生活を送っていく。

 

 

 

 

 八月一八日、手術から10日目の朝、Z先生から「もうすぐ取れそうですね」と言われる。


 薬の交換後はまだ痛かったが、午後からかなり楽になり、夕方「取れたのではないか」という感触があった。

 

 翌一九日朝、便器に股がっていつもの様にガーゼを外すと、洋式便器の麓に何かが落ちた。

 普通の輪ゴムを二つに折って黒い糸で縛り付けたものだ。

 これが入っていたのか。

 

 

 やっと眼にすることが出来た。

 手に取ってニオイを嗅いでみると、かなり臭かったが、僕はとても安心した。

 電話でZ先生を呼び、笑顔の対面をする。

 

 一安心ではあるが、これから一週間はまだ安静にしていて、傷口がきちんと塞がるのはまだ二週間先だと言われる。僕はすぐにでも学校に一度帰るつもりでいたのだが、それは許可されなかった。
 でもクシャミと小便をしてもそれほど痛くはなくなり、これが嬉しい。

 

 

 初めての外出許可は二一日になった。

 路上で売られているスイカの値段が、入院する前と比べるとずいぶん上がっている。夏の短期留学もそろそろ終わりであった。

 午後に学校に戻ったが、みんなは最後の北京を満喫しようと走り回っているせいか、あまり姿が見えない。僕は一通り学校関係者に挨拶をしてから、延吉送り用荷物の整理をする。

 入院中の病室は弱く冷房を効かせてあったが、大学寮の部屋にそんなものはない。北京の夏は強烈に暑い。

 扇風機をかけておいても汗がどろどろと流れてくる。首に掛けたタオルで汗を拭き続けるのであった。

 

 

 それからは病院から学校に通う日々となり、八月二四日、卒業旅行組を乗せたバスを見送ったのだ。

 

 退院は二六日。

 

 いつものように肛門の薬を換えてから、Z先生に保険金請求のための診断書を書いてもらう。それから、荷物の整理をした。

 

 中日友好医院の設備はいいが、管理が良いとは言えない。

 僕が泊まっていた部屋も壊れているところが多く、ゴキブリがいつでも活動している。入院一週間目から持参の『ゴキブリニューゾロゾロ』を一箱床に置いておいたら、この箱の中にはゴキブリが溢れるように入っていた。数をかぞえてみると大小200匹以上にもなる。

 一階の会計で入院一九日間の清算をしてもらうと、保証金以外に603元ほど足らなかった。


 入院費 1,272元(約32,800円)
 治療費 1,036.6元(約26,700円)
 食費 570元(約14,700円)
 薬費 372.35元(約10,000円)
 手術費 300元(約7,700円)
 化学試験費 32.6元(約800円)
 敷設費 20元(約500円)
 合計 3,603.55元(約 93,000円)

 

 お金を払ってから後で計算してみたら、一日の食費は30元(770円)だと判るが入院費は約67元、割り切れないのが変だと少し考えた。
 退院をしても毎日薬の交換に病院に来なくてはいけない。

 

 三0日、通院もこれが最後にしてもらう。

「お酒はこれから三ヶ月間、飲んではいけません。自転車に乗るのも一ヶ月後からにしてください」とZ先生から念を押された。

 

 

 

 

 八月三一日、12:52、夏の臨時便のため北京南駅発はこの日が最後になる第255便・図們行き汽車(きちんと蒸気機関車が頑張って客車を引いている)に乗り、次の留学地・延吉へと向かう。約30時間の旅だ。

 


 僕の席の前に座ったのが、北京市海淀区の郷政府(区役所)に勤める人だった。


 話しの途中で、僕が痔になったことを口に出したとたん、このおじさんの目が光り、彼は姿勢を立て直して話し始めた。

「なになに、私も痔だったんですよ。それで、あなたのはどういう痔だったの?ん?ああ、私のとまったく同じですよ。私はね、もう痛くて痛くて、歩くのも座ることも、横になることも、出来ませんでしたよ。あれは痛いですからね。でも、今は良い医者がいて助かりました。えっ!あなた手術したんですか?私なんかね注射打ってもらってね、それで治りましたよ。手術なんかする必要ありませんよ。私はその後、出勤もしながら通院一週間して終わりです」


 今度は僕が姿勢を正す番だ。


 おじさんも僕と同じように化膿したが、人の紹介で北京宣武医院の肛門科へ行き、治療を受けた。

 そこではどんな重い痔病でも二回の注射で治してしまうという。普通は一回でいい。一日の午前と午後に注射をしてこれで一回。

 この治療は開始されてまだ五、六年、薬を調合できる先生が一人しかいないので忙しく、コネがないと診てもらえない。死去した胡耀邦元党総書記もここで注射を打って治したという。


 この話が本当だとしたら、どうしてもっと広く別の病院でもこの方法が取り入れられないのだろうか。僕のも注射で治ったのだろうか。だとしたら、この夏の一ヶ月間は何だったんだろうか‥‥‥。

「大丈夫!ね、さ、さ、あなたも一杯いきなさいよ、中日友好ですよ。病気は関係ないですって、大丈夫ですよ。私が保証します」


 そう言ってアルコール度数50度の白酒をおじさんは、ドンドンこの僕に勧めてくる。
 汽笛が僕の代わりに叫び声をあげた。

 

(1991年9月)
 

【注意】これは10年前の出来事であって、すべて事実ですが、現在の中日友好医院の状況を指すものでは、全くありません。なお、麻酔薬の分量単位等について若干の間違いがあるかもしれません。お気付きの方は、御一報頂ければ嬉しく思います。

 

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インターネット版 『月刊・打組』2001年 2月号 No.63

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