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富田和明的個人通信

月刊・打組

2001年 3月号 No.64(3月31日 発行)

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弱者からの語り部

3月13日

 両国シアターXで午後二時から八時まで、『マルセ太郎さんのお別れ大宴会』が行われた。僕も、お声を掛けていただき、最後の一幕で太鼓を叩かせていただいた。
 この日は舞台、客席だけでなく、ロビーから楽屋までマルセ太郎の世界に包まれていた。
 舞台中央前方に、いつもマルセさんが座られた唯一の舞台道具・黒箱が置かれ、その前に献花がずらり捧げられている。そして前方上には二枚の大きなマルセさんの舞台写真。
 マルセさんの気が充分満ちているような空間がそこにあった。マルセさんは無宗教なので和尚さんも牧師さんもいない。集ったみんなの気持ちがとてもストレートにマルセさんに向かっている、そう思える会だった。
 僕の出番前に、永井寛孝さんから紹介をいただき、永井さんが叩く「MASARU」があり、その後に僕は猿で登場した。
 猿が時間を過ごして人間になり、大太鼓を叩くという設定だ。太鼓を叩いていると、『花咲く家の物語』のラストシーンそのままを思い出させた。
 マルセさんは生前の希望より、葬儀告別式はせず、身内での送る会と、後のこの大宴会が開かれた。僕には一つの死に様を見せていただいた感がある。
 劇場ロビーで二冊の本を買う。
 写真集『芸人 マルセ太郎』と『マルセ太郎 記憶は弱者にあり〜喜劇 人権 日本を語る』(いづれも明石書店・刊)だ。
 後冊の中で第一部「マルセ太郎が語る」がやけに面白い。聞き手(森正氏)の存在だろうか、舞台で語られる言葉より辛辣でマルセさんの原点を感じさせる。記憶は弱者にあり、この言葉をより理解しようとすれば、読まずにはおれないだろう。思考する芸人の存在、これだけの語り部を失った喪失感がより募ってしまうのだが‥‥。
 マルセさんの作演出追悼公演『イカイノ物語2001』でまた一度、マルセ太郎を噛みしめたいと思う。
 

※Photo/角田武(写真集「芸人 マルセ太郎」より)

※『イカイノ物語2001』は、4月3日(火)〜8日(日)東京芸術小ホール2ほか、全国で上演予定(問)マルセカンパニー 03-3378-6460


シンガポールアイランドに叩く

3月1〜5日

 春を待つ冬の一時、それは突然に決まった。
 三月一日の夕方成田発で、飛行時間は七時間。これならもう少しでアメリカ西海岸にまで到着してしまいそうな時間だが、時差が一時間しかないので体への負担は少ない。
 日本ではオーバーが離せないほどの寒さだったが、赤道直下に近いここシンガポールでは常夏。そんなものはいらない。すぐさまTシャツ姿になる。
 南国特有の甘い?匂いがすでに空港に満ちている。午前0時をまわっていたが、テレビ局のスタッフMさんは僕たちを迎えてくれていた。
 空港からホテルに向かう道、窓の外には牧歌的で緊張感のない穏やかな空気が流れている。何しろ、子供や若い女性らがこの時間でも道ばたを歩いているのだ。そのことをバスの運転手に話してみると、待ってましたと言わんばかりに、
「この国では夜中の三時、四時でも一人歩きしても絶対大丈夫。なんなら今夜あなたも試してみればいい」「喧嘩でも起こればすぐに警察が飛んできて捕まえてしまう。交差点毎に見張ってるんだから」「こんな安全な国は世界に他にない」と彼は胸を張る。
「それじゃ理想的国家ですね。みなさん、幸せですか?」と僕がたずねると、少し間をおいて「そうだ、幸福だと言えるな」と答えた。
 マジである。恥ずかしげもなく答えている。日本でもすぐこういう会話ができるだろうかと、僕は考えたが、やっぱりこうはいくまいと思う。聞く方も聞く方だろうか?
 僕は空港に着いてからずっと、実は中国語が話せることが嬉しくてじっとしておれなかった。なんたってこの五年以上ほとんど封印されていたのだから、心の中はで興奮していたのだ。もう誰にだって何だって聞いてしまう富田和明まもなく44歳がそこに座っていた。

 評判に違わずシンガポールの人々は本当に親切だった。
 すべての人がお客様をもてなそうとしているかのようで、いい人ばかりなのである。テレビ局で僕たちを担当したMさんにしても、ひょっとしたらこの人は僕のことが気に入っているのかも?、と思わせてしまうほど気持ちが優しい(実は誰に対してもこの接し方らしいが、とても仕事での対応に思えない)。
 ここに僕たちは何をしに来たかというと、『ミス シンガポール ユニバース 2001』のオープニングに出演するために来たわけで、決して遊びに来たわけでありません。
 その証拠に到着した翌日から二日間はほとんどずっと冷房の効きすぎたテレビ局の劇場兼スタジオに閉じこめられておりました。外はエライ暑いというのに、やはりここでは寒いというのが一つのステイタスのようで、ガンガンに冷やしている。
 僕たちの出番は短いのだが、何せ国を上げての一大行事のようで、それを生放送(「チャンネル5」で土曜日夜7時半〜二時間生放送された)するということで何回もリハーサルを繰り返し準備されたという訳だ。
 待ち時間は長いが、選りすぐりの美しい女性たちを目の前にしているので時間がそれほど気にはならず、五人(林田氏は不参加)はニコニコ顔で眺めていた。まったく現金なもんです。言っときますが、女性だけでなく男性スタッフにしてもみんないい感じで気分がいいのです。

 シンガポールの魅力の一つは、多民族国家でありながら、中華民族をはじめマレー人、インド人、インドネシア人、タイ人、白人等のその異文化異民族との融合調和が非常にうまくいっているということだろう(日本も見習いたい)。
 三日目に僕が、平沼と訪ねた学校は、シンガポール理工学院で、この学校に日本太鼓団(Singapore Polytechnic Japanese Daiko Drum Team)がある。学生とOBの12人ほどがメンバー。
 シンガポールには太鼓チームが三つあって、そのうち二つは日本人組織が運営しているらしいが、このチームには日本人は一人もいない(6年前グループが誕生した時には、日本人の先生がこの学校にいたが)、シンガポール人、マレー人、タイ人、民族は違ってもみんな日本の太鼓が大好きなのだという。嬉しいではないですか!
 この日のワークショップでも、皆とても積極的でアメリカの日系太鼓チームのようなノリだったが、アメリカと違うのは皆が中国語(シンガポールでは華語という)を話すということだ。全編中国語でのワークショップは、僕にとっては初体験で記念すべき一日であり、当然のことながら、僕は燃えました。
 ま本当のところ、太鼓のワークショップに語学力はそんなに必要ありませんが、その他もろもろの交流の部分でお互いの理解度が違ってくると思います。
 そんな訳で楽しい滞在でしたが、「人間ポリバケツ」と詠われたのも今は昔、僕の胃袋は三日目にしてすでに危険信号を発令し、日本に慌てて帰ってきた次第です。

※シンガポールでの写真は、こちらをクリックしてください

※淡路島と広島・三次で行われた、『和太鼓体感音頭コンサート』場外乱闘編についての報告は次号になります

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インターネット版 『月刊・打組』2001年 3月号 No.64

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