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富田和明的個人通信

月刊・打組

2002年 4月号 No.75(4月19日 発行)

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希望の春 について

4月14日

「マーホア〜、マーホア〜」
「ミェンバオ〜、ミェンバオ〜」
 ここでは夜明けを待たずに人々の営みが開始される。
 僕は薄い布団を被ったまま眼を閉じ、眠りと目覚めの狭間で、揺りカゴに揺られるように物売りの声を聞いていた。
 麻花(揚げパン)、面包(中国パン)、卵、豆腐、米・・・。
 物売りたちは、狭い横丁長屋の路地裏までやってきて、僕の部屋前でも一声叫んでは遠ざかる。
 そして下宿のアボヂやオモニ※1、近所の人たちが起き出し、掃除に片付け、食事の用意が始まる。その時間が滅茶苦茶早い。
 北朝鮮との国境に近い、中国朝鮮族自治州・延吉の朝は、夏が四時過ぎ、冬でも五時六時だ。
 僕はここに一年間暮らし、前半が大学の招待所暮らし、後半の半年が一般の家に下宿した。
 ちょうど10年前のことだが、眼を閉じれば、今でもあの下宿のオンドル部屋に帰ることができる。

 僕が借りていた部屋は三畳くらいの広さで、その中に石炭庫からオンドルの焚き口、釜もあるので、小さい机を置いて布団を敷けばそれで一杯になる。電気はあったが、電圧が一定でないので裸電球の灯りがいつも少し呼吸していた。
 冬、石炭が少なくなればアボヂが運んでくれた。学校から帰ると、自分で釜戸に火を起こして石炭を燃やすのが日課だ。この石炭が翌日の朝まで部屋と体を温め、洗濯物を乾かしてくれる。
 水道の蛇口が一つあって、釜で沸かしたお湯で体と足を拭いて寝た。
 冬はマイナス20度から30度にも下がる延吉は、夏も暑かった。春と秋が短いのだ。
 長い冬があって待ちわびた春の訪れに人々は浮き立ち、四月の終わりに桜が咲く。そして、五月にはサンポと呼ばれる野遊び宴会が多く開かれ、六月から真夏だ。
 下宿した冬から夏にかけての約半年、この家の家族と一緒に食事をし話し、暮らした(僕の部屋は母屋の向かいにあった、離れ長屋の一部屋)。
 今も忘れがたい貴重な時間をここで過ごした。これは、実に淡路島を離れて17年振りに接した家庭の匂いだった。いや、ここでは実際の家族以上に濃い家族の中にいたと言える。

 当時の中国では、外国人留学生が一般家庭にホームスティすることは違法行為だったが、北京から遠く離れた延吉(直線距離では延吉〜新潟間の方が近い。それほど離れている)では、公安の管理がそれほど厳しくはなく、下宿スタイルが留学生の間で始まったばかりのころだった。僕がこの家を知ったのも、前に日本人が下宿していたからだ。
 この家族にはアボヂ、オモニ以外に長女次女が暮らし、長男夫婦も同じ市内に住んでいた。
 アボヂは職業訓練大学校の校長で、オモニは元医師、長女は地元経済大学をもうすぐ卒業、次女は地元医大に入学したばかり。こう書くとかなりのエリート一家になるが、そんな格式張ったところはまったくなく、アボヂは毎朝5時に起き、戸外にある共同便所の掃除と紙捨て(使用済みの紙はゴミ箱にまとめて入れられる。下には落とさない)をやっていた。
 僕を含めて少なくとも15人くらいの人が、このたった一つの便所を利用していた。凍る冬は別として、夏は卒倒する臭いだった。誰もが一番嫌がる筈の仕事を毎朝、率先していたところが、誠に偉い。

 今回の話は、前置きが非常に長くなっている。なぜこんな10年前の話を書き並べたのか‥‥。
 当時、この延吉に暮らしていて、まさか10年後の今日、この家族の子供三兄弟が東京に来て、暮らしているなんて誰が想像できただろうか!
「私は将来日本に行って、その後はアメリカで暮らしますよ」
と確かに次女は、ある日の夕食後、いつものように電気を消し、テレビの明かりだけが瞬きを続ける部屋で、冗談のように話していた。誰も本気では考えていなかった筈だ。
 その信じられないことが現実の事となった不思議さに、僕はまだ唖然としている。

 まず最初に長女の夫が留学生として日本に来た。その一年後、長女が留学に来る。それは、この月刊 打組※2にも書いたが、三年前の春のことだ。
 一年後彼女が大学院に入学した時、中国から、義父母に預けたままだった幼子を日本に呼び寄せた。そして、彼女は学業とアルバイトと子育ての三つをこなし、今年の春、K大学大学院の博士課程に見事合格する。
 一方、韓国の医大大学院で医学博士となっていた次女が、日本で予防医学の研究活動をしてみたいと春に来日する。そして長男までもが中国に妻子を残したまま来日、ついに三人が揃ってしまった、東京で。
 能力があったとは言え、思い念じる力とその努力実行力に驚きを隠せない。
 それほど、延吉での暮らしは、今の暮らしとかけ離れたものだったのだ。

 僕が訪れたのは四月の日曜お昼前。
 彼らの住むマンションは、新橋から新交通ゆりかもめに乗って、お台場の次の駅で降りるとすぐ目の前。海外研究者用のマンションは、僕の家の三倍ほどの広さがあって、九階の窓からは東京湾、晴れた日には富士山が見えると言う。
 10年という年月のもたらしたこの環境の変化に、彼ら自身も驚きを隠していなかった。時代は変わったのだ。
 長女の夫は日本での留学を終えた後、日本に残らず先に中国へ帰って働いている。中国での仕事の方が経済的に良いというのだ。
 長女も二年後には北京に帰って大学の教授になりたいという。次女はやっぱりアメリカで最後は研究したいという。
 彼らの一家が揃うことはこれまでも、そしてこれからもほとんど少ないかもしれない。が、家族の絆は呆れるほど強い。その意識にかなわない。僕には家族の意味が彼らに比べると、まったく希薄に思える。それは日本人全体に言えることでないかと思う。
 中国人、韓国朝鮮人、の人々と接する時にかなわないと思ってしまうパワーの一つがここにある。

 アボヂは、1937年、豆満江から80キロほど離れた清津(現在は北朝鮮)に農家の長男として生まれたが、生活が苦しくなり5歳の時に、一家で豆満江を渡る。
 小学一年で終戦解放。無理をして中学に入学させてくれた父をすぐに亡くし、北京にある解放軍の学校で学ぶ。そのまま卒業後もそこで教職に就く。 
 二年後に延吉にいたオモニと結婚するも、七年間の別居生活。会うのは一年に一度だけ。その後延吉に戻り、トラクター工場に勤める。文化大革命が収束した1980年、教職に復帰し、最後は学長まで経験し、退職した。
 あの部屋で学び育った子供たちの成長ぶりを一番喜んでいるのは、このアボヂとオモニだろう。
 彼の地に住む人々には、皆それぞれ一人一人に歴史が深く刻み込まれている。アボヂの歴史も、特に目を引くようなものではない。が‥‥‥。
 懐かしい味付けの料理と手作りの水餃子が並んだテーブルを囲み、笑顔の絶えない彼らの顔を見比べていた。
 苦労した筈なんだけど、それを少しも感じさせない屈託のない笑顔だ。努力することが当たり前で、どの場所・国に住もうとこだわらない。自分のやりたいことに打ち込んでいく。
 水餃子を口に頬ばりながら僕は、環境は変わったけれど、延吉の彼らの家に戻ったような気にもなった。彼らの顔はあの頃と同じ。いやそれ以上に、希望に輝いて眩しかった。

「ビン ジ〜リ〜ン、ビン ジ〜リ〜ン※3
聞こえるはずのない物売りの声が、ここまで聞こえるような気がしていた。

 長女・ソルメ、31歳。次女・ホンメ、29歳。アボヂ・スチョル、65歳。それぞれの春を迎えている。

※1 アボヂは「おとうさん」、オモニは「おかあさん」のこと

※2 『思い起こす灯火(あかり)』1999年5月号

※3 アイスクリーム

※上写真は、延吉市内、10年前の4月末。下写真は、延吉駅

※僕が下宿した部屋。写真は僕の前の住人Aさんが住んでいた時のモノ

下宿生活の詳細は、『豆満江に流る』(刊・第三書館/定価・2,000円)に書かれています。興味のある方はこちらをお読みいただければ嬉しいです。第三書館は倒産していますが、インターネット(アマゾンM本屋さんなど/送料も無料)で書籍の流通はしています。打組にもお申し込みいただければ、多少の在庫はあります(こちらは送料実費かかります)。

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インターネット版 『月刊・打組』2002年 4月号 No.75

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