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富田和明的個人通信

月刊・打組

リクエスト公開 No.13(2000.7.5 発行)

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入道雲と太鼓』

 夏の行動日記風  

1997年 8月 

 


※横浜市港北区主催「和太鼓をたたいてみよう」

 今年の夏は太鼓教室の企画が多かった。
 先ずは8月2〜3日、横浜市青少年センターホールで行われた日本演劇教育連盟主催「和太鼓講座」。これは学校演劇教育者の為の講座で、全国から45人の先生方が参加した。
 ストレッチ体操から発声、太鼓の話などを交え、基礎のかまえ、リズムなどを説明して、“MASARU”(「花咲く家の物語」のために作った曲)の一部を指導した。さすがに先生方は曲をおぼえる段になると、目の色が変わったようになり、かなり速いペースで進んでしまった。
 曲を学校に持ち帰って、これを生徒や他の先生方に伝えなくてはいけないので必死なのだ。自分一人が学ぶだけではなく、その後ろに何人もの人々の影がある。だから熱の入れようが違うのだろう。相手が教育関係者だからといって、特にこちらの姿勢が変わるわけではないけれど、言葉での説明もできるだけ念入りにしたつもりだ。今回は受講者の数が多かったので、打撃団から代表の平沼と佐藤も加わり三人体制で指導した。それにしても参加者は女性が多い。男性は数名しかいない。女性のパワーが炸裂していた。
 講座の会場には青少年センターホールの大舞台が使われ、ここには贅沢な空間があったのも良かった。最後にはこの舞台で発表会まで行い、爽快感が残った。
 そしてこれは太鼓とは直接関係ないが、この関内にあるホールは僕にとって思い出深い場所で、淡路島から上京してきたばかりの二年間、いわゆる新劇と呼ばれる芝居がまだかろうじて元気な時代、これをたっぷりと鑑賞させてもらった場所だ。
 つまらないものも多かったけれど、中には素晴らしい舞台があり、生の役者の姿を眼に焼き付けることができた。今は亡き千田是也、宇野重吉、杉村春子、太地喜和子、若き日の江守徹、スマートな西田敏行、等など。僕は全部楽屋口から入ってお金は払っていないけれど、この大ホールの客席はほとんどの席が芝居の上演時には空いていた。僕が座れば少なくとも一座席は埋まり、拍手は数人分大きくなり、役者も力が入ったはずである。いけなかったでしょうか。そんな青酸っぱい思い出もこの劇場にはある。

 そして9〜10・17日は、東京打撃団主催の「打撃塾」
 場所は東京世田谷のとある小ホール。今回は2コースが同日に行われ、富田コースと林田コースがあった。前回は佐藤コースを行っている。この「打撃塾」は打撃団それぞれのメンバーの個性を生かした太鼓教室で、内容もコースによってみなまちまち、東京打撃団の若いファンのための太鼓教室的色合いが強い。日程も突然決定する。次回開催の予定も今はないが、必ずいつの日にか開かれる。

 20日には、太鼓教室ではないが岐阜市で10月5日に開かれる「勝手おどりパレード」に参加する太鼓チームに簡単な曲を指導した。もともとこのパレードは踊りだけだったのだそうだが、今年は太鼓のチームも参加してみてはどうかということになり、それなら何か全員で一緒に叩けたらということで、声を掛けていただいた。
 岐阜市は13年前、鼓童と山下洋輔さんのジョイントを初めて企画したところだ。和太鼓の音楽界で記念すべきこの出来事が、東京や大阪でなく岐阜で企画されたところがもっと評価されてよいと思う。
 さて話を戻して今年の秋のパレードだが、和太鼓のチームは地元太鼓五チームとゲストで東京打撃団が参加する。総勢で100名を越える予定だが、全員が合わせるのはパレード当日のみ、それまでに僕と佐藤だけが2回岐阜でみんなと練習する。それだけの時間の制約の中で何ができるか、というのを考えるのが僕の仕事だ。
 1回目のこの日、練習会場にはまずグループ代表の30名ほどの人が集まっていた。何をやるかまったく分からないというのに集まってくれるのは、それだけで半分は成功だと思いたい。太鼓の表現に対する考え方が柔軟な証拠だと思う。とりあえずみんなで太鼓の音を出してみれば、何となく手応えを感じた。あとたった1回の練習で本番を迎えるのは無茶な話かもしれないが、これは「勝手パレード」なのだ。基本的には皆が集まってワイワイやれればそれで今回はいいではないか、僕はそう考えている。他に僕は気に入っていることが一つある。
 今回のジョイントの曲名を「勝手鼓手(かってこて)」と名付けたことだ(まだ正式には決っていないが)。「鼓手」というのは中国語で「太鼓打ち」のことで、以前からこの言葉をいつか使いたいと思っていたので、その念願が叶いそうだ。些細なことかもしれないが僕には嬉しい。

 翌21日には愛知県旭町の太鼓グループ・三州旭太鼓『谺(こだま)』の指導に行った。23日に旭高原の元気村野外ステージで発表する彼らの曲と、打撃団コンサートのアンコールにジョイントする部分の稽古だ。
 このグループはちょうど一年前この元気村で誕生した。今回は二度目の大舞台だけど、健やかに育っている感じだ。まだグループは若いけれど、太鼓に熱くなる人々がたくさんいる。三年目が楽しみでならない。

 8月の最後の指導は26〜27日、地元横浜市港北区、地域振興課(生涯学習支援係)主催の太鼓教室「和太鼓を叩いてみよう」
 初日、会場に太鼓の搬入を終えたところで初めて参加者名簿を見た。最年少が19才、最高69才。全員で20名弱、半数が50才以上。そのほとんどが初めて太鼓のバチを握る。
 正直言ってやりにくいな、と最初は感じた。年齢の幅がありすぎる。全体の年齢も高い。こういう時は何をしたらよいのか?一息ついて考えた。とにかく楽な気持ちで太鼓に触れ「太鼓の音を自分の体で感じてもらう」ということが大事だろう。タイトル通りのことをやればいい。そう思いながら参加者の前に出ていった。
 ここの太鼓教室も空間は充分にある。11月30日に東京打撃団がコンサートを行う会場・港北公会堂ホールを使っている。集まった人たちの顔を眺めてみると確かに若くはない。お年寄りと呼ばれても不思議ではない人たちもいる。しかし、太鼓を叩いてみたいという気持ちで参加を希望してきた人たちである。話してみると明るくて元気だ。僕がその年齢になった時、こんなに元気でいられるだろうかと少し考えたりした。この中に混じって若い人もいるのである。もう全体の雰囲気はとてもバラエティだ。
 太鼓の音を聞いたことがあっても、自分がバチを持って太鼓を叩き、自分が叩いた太鼓の音を自分の耳で聞き、体で感じる、ということはとてもスリリングな体験だろう。それが初めてのことであればよけいに感動的になる。人生をこんな体験一度もせずに終えてしまうのはもったいないではないか。太鼓のグループをつくるとか、グループのレベルをもっと上げたいとか、レパートリーを増やしたい、というのもよいが、もっと根源的なこんな太鼓体験教室があってもよい。三世代的生徒の皆さんに囲まれて、僕もどんどん楽しくなってきた。
 この二日間の講座を終えて僕は思い出したことがある。
 僕が高校を卒業して入学したのは横浜放送映画専門学院という映画監督の今村昌平さんが作った学校だった。僕はここの一期生として入学したのだが、当時は入学試験がなかったし、入学資格も問われなかった。入学してびっくりしたのは、いや〜いろんな人間がいたことだ。新入生の年齢の幅は20才くらいあったし、これが同級生だから敬称略で呼び合うし、国立大学や有名私立大学を卒業または中退して入学してきた人たちもいれば高校中退者もいた。そして明らかに知的または身体的ハンディを持った人たちもいたし、そんなみんながとにかく一緒に学んだ(?)。僕は寮生活だったので、一緒に生活もしたけれど滅茶苦茶な毎日だった。でも今思い出すととても懐かしい。いったい何を学んだのかよく分からないが、僕の原点である。
 この学園生活、最初の一年間住んだのが港北区日吉だった(寮があった地元住民から退去の署名運動まであり、二年目には保土ヶ谷区星川に寮は引越した)。夏の入道雲を見上げながら、日吉、綱島、大倉山、これらの地名を見ると僕の体の中のどこかがうずくのだ。

 夏は野外コンサートの季節でもある。真鶴は終演後に土砂降りの雨、初島は雲行きを心配しながらも雨は降らず、旭高原は満天にきらめく星々、今年の夏はまだ続く! 


 

『夏の足跡

 夏の行動日記  

1998年 7月16日〜8月22日 

 

7月16・17日 京都祇園祭取材
去年のジァンジァン太鼓物語のテーマだった三宅について調べていた時、太鼓を生業としている人間として避けて通れないと思ったのが祇園祭だ。現在の日本の祭の三分の二以上に影響をあたえたと言われる、いわば日本の祭の原点とも言えるのが祇園祭だが、調べれば調べるほど僕の頭の中ではどんどん整理が付かなくなってきている状態だ。祇園と言うからには仏教かと思ったら、これが神社の祭礼で、明治維新の神仏分離政策の結果なのだが、これはなぜ強行されたのか?京都(平安京)を創建した桓武天皇自身も渡来人の血縁であったくらい、当時は渡来人の力が強く、日本の文化も祭も彼ら渡来人がその礎を築いたことは間違いないが、千年以上の歴史の流れの中で日本と朝鮮は異なる文化も育てていく。その一つが祇園祭だと思う。次回のジァンジァン(来年2月9日)では祭の解説をするわけではなく、僕にとっての祇園祭とは、を話すことになる。でもこれまで僕はその祭の現物を見たことが無く、今年やっと祭のハイライト部分だけを見ることができた。外から眺めた第一印象は、「何と退屈な祭なのか、警察の管理が行き届いた、おとなしい祭」だった。昔の祭のにぎわいを本で読んでいただけに、期待し過ぎたかもしれないが、これが現在の祭の姿であることを考えた。

7月19日 打撃団飛騨高山 公演
パリから帰国して最初の打撃団公演だったが、大ホールでまばらな客席。静かに燃える。

7月23日 兎小舎第12夜
ゲストに平沼仁一氏を迎え、今回は僕も太鼓を叩かず、トークのみの二時間。テレビモニターを持ち込んで、閉会式のテレビ放送をビデオで流すところから始めたので、その後も一時間以上W杯の裏話で突っ走る。平沼は太鼓プロデューサーとして喋ることで生活しているのだから、話が出来ることは当然だが、文章も実は妙な世界のものを書く。今回の朗読コーナーは彼が鼓童時代にしたためた『大東京浮草身体論』の中から「京都からの手紙」の一部分を読む。当時の彼のペンネームが分田上三郎。なぜこの名前なのか、理由はまだ聞いていない。

※写真は2000年3月撮影のもの/越路町企画課提供

8月1・2日 こしじ巴太鼓指導
新潟県越路町に通うようになって二年目。今は二曲目の『古志の風』に取り組んでいる。稽古場に使っている体育館が夏はサウナの様だが、冬の冷凍庫よりはずっと過ごしやすい。古志の風は、中央に三尺三寸の大太鼓と両脇に四尺の長桶胴二台、二尺二寸の宮太鼓二台の計五台を、立ち台の上に乗せ並べているので、それだけで圧倒される。後は曲の中身だけど、少しずつ形にはなってきた。


8月6日 新石川納涼祭
これは地元企業・工藤建設が住民サービスに続けている祭。この頃毎日お天気は良いのに、決まって夕方か、夜になると雨が降る。悪い予感が的中。ちょうど本番の時間(これでも雨で少し遅らせた)が土砂降りの雨。僕ら三人(佐藤と村山)はテントの中で叩いたが、それでもかなり濡れてしまう。見ている方はもっと濡れた筈だ。工藤建設のスタッフの方々はその中でも一番元気で、ずぶ濡れになりながらも焼きソバを炒め、鳥を焼いている姿は迫力があった。

8月8・9日 全劇研 太鼓講座
去年に続いて二度目。全国から集まった教員の方々が中心の40人を相手に横浜青少年ホールの大ホール舞台で気持ちよく太鼓を叩く。短い時間の中で全員が必死になって学ぼうとしている姿勢に、ついこちらも熱くなってしまう。今年は去年の「MASARU」のパート2を指導する。パート1の方はすでに全国各地で叩かれているらしい。まさる君が大好きな放浪の旅をしているようで僕も嬉しい。


8月18日 丸山太鼓グループ公演
これも昨年に続き二度目の僕はゲスト出演。代表の丸山二郎氏の本職は、日本料理店経営者であり板前さんだが、太鼓への取り組みも半端でない。主にヒダノ修一がグループを指導しているが、丸山さん以外のメンバーもそれぞれ職業を持っている為、練習は各自の仕事が終わった深夜から朝にかけて行うらしい。昼間の疲れでフラフラになりながら、それでも太鼓にしがみついてきた、そんな彼らの執念を燃やす年に一度の本公演である。


8月22日 旭高原『一祭合祭』創作和太鼓大会
愛知県旭町での四度目の夏。地元太鼓チーム・三州旭太鼓衆『谺(こだま)』が誕生して三年。発足時からの男性陣はさびしくなったが、女性陣はますます元気。ここはまだ自分たちの太鼓を持たず、毎回借り物の太鼓で練習してきたが、レパートリーも四曲に増え、力もついてきたのでこれからが楽しみだ。東京打撃団三人組はゲスト出演。このすがすがしい旭高原元気村で一週間くらいテント生活してみたいと毎回来る度に思うのだが、家業がそうさせてくれない。いつも突然に訪れ、足早に去っていく。後ろ髪を引かれながら‥。それはあたかも夏の思い出のように。


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