和太鼓体感音頭コンサート案内

■体感音頭97   ■体感音頭98  ■体感音頭99

「歳末叩き合い」、まずこの言葉が頭に浮かび、それから門前仲町の「門仲天井ホール」支配人・黒崎八重子さんと出会いがあり、考えたコンサートが和太鼓体感音頭になった、それは97年秋の小さな決断だった。この三年間は佐藤健作との叩き合いとなる。

2000年からは、熊谷修宏とのコンビでスタートしている。

■体感音頭2000こちら  ■体感音頭2001新横浜こちら



■体感音頭99

二人の太鼓打ちが和太鼓を叩きまくる あなたへの愛の音頭 今年もやります!
東京下町・門前仲町の奇妙なビルの天井8階で、太鼓の風音に
身をまかせてみませんか?
不況嵐の大海原に、漕ぎ出す二人の音鼓節
向かうは新しき体感、二千年

 ●歳末叩き合い『和太鼓体感音頭’99』二夜連続 叩き込み
 12月12日(日)夕刻17:00始め /13日(月)暮夜19:00始め
 今年も叩きます 富田和明、佐藤健作、男二人太鼓音頭 +お楽しみゲスト有り
 入場料/全席自由 2,700円(当日2,900円)
 1997年から始まったこの顔合わせも今年が最後か?三部作ここに完結
 企画/打組  協力/アートウィル・太鼓アイランド青葉
 照明/村上 智子 幕デザイン製作/類 貴保
 東京都江東区/門仲天井ホール(アートキッチン)
 (問)打組・富田 ? 045-913-5582

打ち手紹介

打ち手
富田和明(とみだ かずあき)

打ち手
佐藤健作(さとう けんさく)

今年の夏は、空いた時間のほとんどをホームページ作成に費やしていた。すると冨田和明さんからEメールが届いた。この方は仙台に住む方で僕とは一字違いだが、二人でメールのやりとりをしていると妙な感覚になる。鏡の向こうの別の世界を持った自分と話しているような錯覚だ。こんな錯覚が太鼓の音にならないかなとぼんやりと考えます。

この12月で30歳になります。
思えば、太鼓を始めて20年。
実感はないけれど、こんなにやっているんですね。この先何ができるのか(出来ないのか?)可能性は無限であります。
新たなる気持ちで動き始める、けんさくの太鼓をどうぞ。

門仲天井ホール(アート・キッチン)

江東区門前仲町1-20-3

交通機関
地下鉄・東西線「門前仲町」駅下車
出口「出口3」から徒歩2〜3分
1階がモスバーガーの建物の8階

●紹介参考文 その3 これは99年の体感音頭コンサートについて書かれたものです。

歳末打ち納め対談

ファンピー富田 vs 富田和明

1999年 12月24日       

※剱伎衆「かむゐ」の島口哲朗さんと『オイサー?』。上下両幕は類 貴保さん製作  Photo/A.Kenji
 
ファンピー富田(富田の末の弟/) いよいよ師走、だと思っていたらもうすぐ大晦日。ホントに今年も終わりですね。
富田和明) やっぱ十二月、体感音頭が終わらないと年が終わらないという気分に僕はなってますね。今年はファンピーさんも出演できてどうだった?
 公演が始まる前の前座ですけど出させていただいて、緊張しました。ケンチャックさん(佐藤健作の双子の兄)が一緒でなかったら勤まらなかったと思いますよ。
 去年は一日だけ僕も「客入れトーク」をやったんだけど、ダメだったね。二日続けてやる勇気がないもの。
 そりゃ、太鼓のコンサートに来たつもりがいきなり開演前に漫才コンビもどきが出てきてお喋りですからね。お客さんがビックリしてるのわかりますから。それに「まずい」ってお客さんが思って帰ろうとしても、あの門仲天井ホールは一旦入ったら帰れない小屋なんですよ。
 そうそう、もう狭い会場で椅子がびっしりだから座ったら最後、動けないよね。今度「和太鼓金縛り劇場」っていうサブタイトルつけようか?
 はいはい。
朝からたくさんの方に手伝ってもらって、何にもない四角い空間に幕吊って舞台作って客席作って、それからその前にあの太鼓や道具類を全部八階まで搬入してるんだけど、それが大変ですよね。
 いつも途中で二、三個太鼓落っことしちゃうものね。
 危ないじゃないですか?
 それをまた拾ってきて上げるのが大変。公演観終わって、あるお客さんが「この大太鼓(三尺三寸平胴)はどこから上げたんですか?」って聞くから「そこの非常階段からです」って答えたら「ホー」って感心してました。
 嘘教えてどうすんのよ。エレベーターにギリギリ入ったんでしょ。
 それはさておき、今回の特長は何と言っても照明に力が入ってました。村上智子さん(演劇プロデュース「Uステージ」役者兼照明家)に来てもらいましたからね。それから初日の照明仕込みには、嶋崎靖さん(同じく「Uステージ」代表)まで来ていただいて恐縮しました。
二人とも僕の同級生(横浜放送映画専門学院演劇科)なんだけど、智ちゃんとは一度も仕事を一緒にしたことがなかったし、嶋崎とも初舞台(’76年春・松島とも子ミュージカル「絵のない絵本」)が一緒だっただけでその後何もやっていないから、こうやって会えたこと自体が嬉しかったね。公演の日の朝、二人の顔を見ながら三人で並んでいると、いっぺんに二二年前に戻った気がしたもの。
 道が違っていても会えるもんなんですね。
 この学校を卒業する時に担任だった沼田先生の言葉をおもわず思い出しましたよ私は。
「芝居でうまい奴、才能のある奴はいっぱいいた。いたけどみんなやめちゃった。残ったのはやめなかった奴だ!」って。
 残ったのはやめなかった奴、ってあたり前の話じゃないですか?
 とにかく、演りたいのならやめるなってことだよ。
 でも才能も何もない人間に「やりたい奴は続けろ」だけでは無責任じゃないの?
 そうだな。でも「おだてれば猿でも空を飛ぶ」って昔から言うでしょ。
 言わない!
※太棹を手に『戯打遊(ぎだゆう) 三味線』で一年を振りかえる  Photo/A.Kenji
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 今回、もう一つ特長がありました。それは殺陣師の島口哲朗さん(剱伎衆「かむゐ」代表)に『オイサー』をやってもらったこと。
この曲はもともと愛と闘いをテーマに作った曲で、それを太鼓で演るのがミソだと僕は思ってたんだけど、今回は思いきって太鼓と剣の対決にしました。やっぱり殺陣の人は迫力が違いましたね。
 記録写真を頼んでいた写真家の青柳健二さんも、あまりの緊張感でシャッターを切れなかったそうですよ。
 本当は剣でやりたかったんですが、舞台が狭いので黒木刀でした。お客さんもすぐ目の前にいらしたので、島口さんは刀さばきの練習を何度も繰り返していました。「真剣もありますよ」って言われたんですけどね。
 真剣だと、かぶりつき座布団席の方は確実に何人か危なかったですね。
 劇場支配人の黒崎八重子さんから「事故だけは起こさないように」って釘を刺されてましたから、真剣に断りました。
 はいはい。
 この前「かむゐ」の稽古を見せてもらいましたが、五人での立ち回りはもっと凄いです。広い空間があれば、一人対一人ではない太鼓と剣の世界も、皆さんに観ていただきたいと願ってるんです。
 太鼓が一人で剣が五人じゃ、それこそ「太刀打ちできない」じゃないですか?
 その「太刀打ち」を曲名にするのも面白いかな?太鼓と刀で打ち合うから『太刀打ち御免一番横丁』とか‥‥。
 どうでもいいけど、その、曲名を先に考えて内容が決まるのは本番直前という習慣は、何とかしたほうがいいと思いますよ。健作さんも一番困ってるでしょ。
 それはわかってるんだけど‥‥。今回も何とかもう一曲は新曲にしたくて、この一ヶ月は唸っていたんですよ。猿とニワトリに次ぐ動物シリーズとか、中国朝鮮に次ぐアジアシリーズとか、苦しんだあげく(でもこの苦しみが最大の喜びの時間なんですが)、開き直って、よしこれでいこう!と決断したのが三日前でした。
 健作さんは、もがいて二日間寝込んでましたね。
 一人での太鼓芸も目指していきたいんですが、一人ではどうしても表現できない世界があります。東京打撃団は五人の世界だし、小回りの利く二人で作る世界も魅力的です。その点、佐藤健作は柔と剛の両方を兼ね備えた、何色にも染まりながら自分の色を出せる希な太鼓打ちですから、これからもお付き合いを願いたいですね。形式美と技とを持った上で、それをまたブチ壊せる落差を楽しむ太鼓を作りたいと僕は思うんです。
 それでは私からもケンチャックさんにお願いしてもらいますよ。最後になりましたが、
 皆様よいお年をお迎え下さい!

※佐藤健作 御手製・巨砲バチ(長さ85?、直径43?のヒノキ材)がしなる   Photo/A.Kenji
 
   

富田和明的個人通信『月刊・打組』1999年12月号より

●紹介参考文 その4 これは99年12月13日の体感音頭コンサートライブの一部を収録した。

『戯打遊ぎだゆう三味線99』

 

(三味線でひとしきりの出囃子を弾きながら 富田登場)
このたびは 歳末 たすけあい
(「ンンン〜」と わざとらしい佐藤の咳払い)
失礼いたしました  叩き合い
和太鼓 体感音頭 99 二夜連続の 打ち込みに かくも にぎにぎしくの御来場 また 遠路はるばるよりの お越し まことに まことに 嬉しい かぎりでございます

ふりかえって みますれば 
ちょうど 一年前の 今月 今夜は
たしか アフリカで 太鼓を叩いておりました

(突然の大声で)ハム ジャンボ ジャンボ!  ハバリ ザ ナイロビ?  ササ ニンゲンターカ クワ ジュリシェーニ
ウェンザング ワ 東京打撃団
フユ・・・ ミミ・・・ アサンテ サーナ アサンテ サーナ(と再び絶叫) ハクナ マタータ

今回は 舞台 あいさつ集で お贈りいたしております いまのは スワヒリ語  次は フランス パリ

(エレガントに)ボンソワー トゥルモンド  みなさん こんばんは 
サキヤイユ〜 パリ  寒くなりましたね パリも 
レ タイコ ブゾンドネショー? 太鼓を聴いて温かくなりましたか? こうたずねますと客席から「ウイー」という声がパリでは上がります
ヌ ソォム ル  私たちは 東京打撃団  ブワッシー レ ミュージシャン
トワァ キ メメ  モア キ メメ あなたが 愛した 私  私が 愛した あなた(と、ここは歌う)

フランス・ケニア・エジプト・タンザニア、そしてザンビア と
一ヶ月の旅を終え 迎えた新年1月 東京で 総決算ともいうべき コンサートを行いまして 多くの皆様方から過分な評価をいただきました というのに というのに
昨年の七月には サッカーワールドカップ フランス大会閉会式でも ニッポンを代表して 太鼓を叩きました というのに というのに
その後 仕事がなくなりました
(「ゴ〜ン」という鐘の音が響きわたり それに手を合わせる富田)

半年ものあいだ ほとんど 公演が なかった いわゆる 不況でございます
富田は 家で 内職の 傘はり 
佐藤はと いえば 朝 昼 バンと 一日中 家で 寝ていた
動くと腹がヘル 腹がヘルとメシを喰わねばならぬ メシを喰うには金がかかる ので 毎日 寝ていた
さすが 佐藤は 大学も理科系 合理的にできております

(だんご三兄弟のフレーズを弾く)
さて 春が過ぎ あつい あつい 夏が過ぎたところで 仕事が入ってきました
あっ  あっ あっあっあ あ あ あ  あああああああ〜(と大泣きしながら) ありがたや ありがたや〜(と よろこぶ)
あっ あっ あ あハックション!

好きで選んだ道なれど 歩みは にがし 汗の味
一歩二歩 あゆんでは 三歩下がり  
一歩二歩三歩 あゆんでは 四歩下がり さて何歩進んだでしょう か?  
めざす 太鼓の花道 いずこに ありや  足の長さは 親ゆずり  太鼓のウデは 手前ミソ あゆみは おそきカメかなめくじ

好きで選んだ 道なれ ば 
一九九九年も 後わずか 二000年 ミレニアム のこの時に
こぎだす 和太鼓 体感音頭

上のまぶたと 下のまぶたを あわすれば
ほれ あの音は わたしの 涙
これ その音は あの人の 声
ああ この音は ふるさとのにおい
などと 思いめぐらし ゆく年 くる年

こよい舞台は お客様との ひとよの ちぎり
今夜も なにが おこりますやら わたくしどもにも わかりかねまする

音を 出すのは 二人だけ  あとは 皆様方の 拍手の音だけが たよりの 道しるべ

本日の 打ち手 わたくし とみだ かずあき  
そして最後にひかえし 
二人しかいませんが  
さとう〜 けんさく〜(「ああい〜〜」の声のもと佐藤登場)

一同そろいまして 二人しかいませんが   
七重の腰を八重におり こうべを ほれ このように たれ
皆様方の あつき ご声援を すみからすみまで お願い申しあげる 次第でございまする

どうか 最後の最後まで よろしく(「カンッ!」と佐藤の持つ拍子木が鳴る) お願い〜(「カンッ!」) 申し上げまする〜(「カンッ!カンッ カンッ カッカッカッカカカカカ〜〜カンッ!」 三味線も拍子木に合わせ 弾き終える)

 



■体感音頭98

本年も「歳末叩き合い」を行う予定が、12月は海外公演に出ることになり、11月に繰り上がりました。ちょっと早目ですが、関東ではこれが今年の打ち納めとなり、富田、佐藤、二人の太鼓打ちが和太鼓を叩きまくります。90分間、音だけで綴るあなたへの愛の音頭。東京下町・門前仲町の奇妙なビルの天井8階で太鼓の音に身をまかせてみませんか?旧暦10月は日本中の神々が出雲の国に集結してしまうそうですが「神は無くとも、鼓は響く」。不況嵐の大海原に、漕ぎ出す二人の音鼓節。二夜連続の叩き込みです

●打ち手 富田和明(とみだ かずあき)

今年の夏はパリで始まり、ソウルで終わった。
急に慌ただしくなってきている秋この頃、師走はアフリカ公演に出るので打撃団メンバーにとっては11月が歳末の気分です。打組企画で初めての二日間公演。たくさんの御来場を心より願って‥。皆様の拍手が体感音頭の幕を上げます

●打ち手 佐藤健作(さとう けんさく)

最近ダイエットしまして、5キロほど体重を落としましたが、やっぱり基本的に油っこいのが好きである。昨年の公演では昼食に餃子を食べ、にんにくの臭いをぷんぷんさせての演奏でしたが、今回はいったい何を食べて打ちまくりましょうか?腹が減っては戦はできぬ〜〜〜!

チラシ呼び込み文より

 

●紹介参考文 その2 これは98年の体感音頭コンサートについて書かれたものです。

『神鳴月 夢のささやき 音鼓月』

1998年 11月8、9日

 

 時間になって、客席前方中央の天井から、一個の小さな鐘が下りてくる(一日目のみ)。その鐘が打ち鳴らされて公演の幕が開いた。
 一にかまえ/二に目線/腕を伸ばして/真っ直ぐ見つめ/愛の言葉は/なむき みょう ちょうらい
 やさしく強く/激しくそっと/燃える体に/熱い吐息/太鼓叩いて/なむき みょう ちょうらい
 叩けやたたけ/ドーンとたたけ/叩けやたたけ/ドーンと叩け/今宵叩けば/なむき みょう ちょうらい 
 男ふたり/男ふたり/バチを握れば/ほのぼの嬉し/ならす和太鼓/なむき みょう ちょうらい 
『登山囃子』の歌詞を替えアレンジした『ふたり囃子』を僕と佐藤が唱える。
 その後、『義太夫即興98』では少し早いが今年一年を振り返り、去年は中国語での一幕を作ったが、今年は韓国語で挑戦。やはり韓国語は中国語ほど慣れていないので、内容が通じたか心配した(一日目は意味が分かった方がゼロ、二日目は二人ほど?いた)。
 佐藤の特大のバチ(長さ85?、直径43?のヒノキ材)は六月の東京打撃団世田谷公演以来の登場。このバチは見るよりも、自分で握ってみればその大きさ重さに驚くはずだ。これで叩きまくるのは佐藤健作にしか出来ない技であります。
 二羽のニワトリが奏でる『小ヶ鼓々・2』は、これまで打撃団公演で試みたアイデアをより具体的な曲にしたもの。
 昨年と同じく年に一度の『オイサー』格闘の後、『神楽無音舞』は特別ゲストの熊谷修宏(のぶひろ)さん。そして『三味線即興』では、衣裳を変えました。
 夏にソウルで買ってきたサムルノリ用の上下を身に付け、頭には特製頭巾(薄いうぐいす色のシルク・スタイリスト李榮禧/イ・ヨンヒさんお手製)を被る。僕は演劇青年の頃からよく人に「かぶり物がいい」と誉められておりました(つまり、ぬいぐるみやお面をつけると顔が見えなくなって非常にいいらしい)し、この出で立ちで三味線を弾けるのは僕しかいないと自負しております。
 最後はやはり大太鼓の二人打ち込み、大東京ネオン余光を受けての三本締めで、和太鼓体感音頭’98は幕となりました。
 
 門仲天井ホールは僕にとって妙に肌が合う気がします。これからも年に一度はここで叩きまくりたいと思っていますがやはり、狭いエレベーター一本での搬入搬出、空っぽのオープンスペースに舞台と客席を組み立てるのは、多くの人の協力が必要です。今回は受付販売まですべてが『太鼓アイランド青葉』メンバー全面協力の上に成り立ちました。
 会場に飾られた力作垂れ幕三枚は、昨年に続き、類貴保(るい たかやす)さんの制作。類貴保という名前は、類さんが息子さん、貴保さんがお父さんの親子コンビの名前です。類さんはダウン症を持って生まれましたが、小学時代の先生の影響で太鼓と出会い、それから二十年、太鼓に一途です。一日目にいらっしゃったお客様は開演と終演を告げる、鐘を叩く彼の姿を見られたはずです。彼が文字を書き、父が絵を付けました。
 一夜と二夜の違いは実は他にも色々とあって、一つはコンサートが始まる前の前座トーク。これから楽に観て頂く体勢を作るのに、お芝居や永六輔さんなどの会でやっているのを聞いていて、一度やってみたかったのです(一夜のみ)。太鼓のコンサートに来て、いきなりコントをやっている風景を僕の会ではぜひ実現させたいと思っています。そして一夜目では、照明さんとの打ち合わせが悪く、かなり暗いままの舞台となってしまい、眼が痛くなった方も多かったかもしれません。演奏の方は佐藤も私も全力で立ち向かっておりましたので、どうかご勘弁下さい。
 この二夜連続叩き込みが終わると、僕の体には安堵と疲労、喜びと反省、興奮と意欲が再び沸き上がります。

 コンサートの後、三日目の明け方、かなり久しぶりにハンチョウが夢の中に現れた。「どうして僕が死んだことになってるんだよ」と怒って入ってきた場所は勿論、佐渡真野町元大小小学校の玄関。驚いて迎える僕たち。「あれ(引き揚げられた遺体)は僕じゃないんだよ。きちんと見てもらわなければ困るよ」。「でもハンチョウ、どうやってフィリピンから戻って来れたの?」うろたえながら聞く僕。「パスポートだって持ってなかったでしょ(事故後、パスポートは遺族の方が持っている)」ハンチョウはムッした表情のまま(確かにハンチョウならパスポートなしでも帰ってこられるのかもしれない。まだ日本人に中国入国ビザが発行されなかった時代、香港で「私の祖父の墓参りにどうしても行く」と粘り、特別に訪問ビザを発行させた男である)僕を少しにらみ、何事か言葉を発しながら、二階の自分の仕事部屋に駆け上がって行った。

※ハンチョウこと河内敏夫は、鼓童創立代表。’87年元旦、フィリピン・マタブンカイビーチにて逝く

※写真は、類 貴保さん制作の大垂れ幕の下で、野人・山野 實(みのる)さんと、富田Tシャツを着る私(この時はスキンヘッドでした)  Photo/H.Jiniti 

 

富田和明的個人通信『月刊・打組』1998年11月号より


■体感音頭97

いよいよ師走。今年も色々な公演を行ってきましたが、1997年の思い出を、また98年への希望を託して富田、佐藤、二人の太鼓打ちが和太鼓を叩きまくります。トークはいっさいない(と思う)。90分間、音だけで綴るあなたへの愛の音頭。景気低迷底知らずの日本経済を忘れて、東京下町・門前仲町の奇妙なビルの天井8階で太鼓の音の風に揺られてみませんか?何か新しい想いがあなたの体の中から吹き出してくるかもしれません。心豊かに新年を迎えたいと願う人々に捧げる、これぞ打ち込み一本締め。

●打ち手 富田和明(とみだ かずあき)
ほぼ一ヶ月前の今頃に公演を決めるなんて無謀と言える。それもこの時期にだ。しかしどうしても叩きたくなった。健作に声をかけると彼も気持ちは同じだという。ではやろう!何人かの知り合いに電話でこのことを話したが、行けると答えてくれた人は今日(11/17)までに一人しかいなかった。出演者は二人いる。今二人でどんな夜になるか燃えている。

●打ち手 佐藤健作(さとう けんさく)

ドドンガドンと太鼓をたっぷりお聞かせしましょう。
もんなかで太鼓をやるのはこんな“もんなんか”と言わないで?!
あなたのハートにぐさりと刺さればお慰み。 合掌

チラシ呼び込み文より

 

●紹介参考文 その1 これは97年の体感音頭コンサートについて書かれたものです。

音頭取りの空腹』

1997年12月19日

 

 自宅から銀座を越えて門前仲町まで、太鼓の倉庫になっている我がハイエースで走る。空いていれば1時間、多少混んでいても普通なら1時間半の距離だが、今日は2時間以上もかかった。先頃京都国際環境会議で二酸化炭素の量を減らそうと世界中からたくさんの先生方が集まって高らかにそれを宣言したというのに、今日の都心は上(首都高速)も下(一般道)もアイドリングの嵐だ。不況風吹く中とは言えクリスマス前の金曜日、車は増えている。お陰で予定より30分も到着が遅れた。
 駐車スペースのない道路に無理矢理、車を横付けし、歩道に太鼓や道具類を全部下ろし、それからホール専用ではない、耳鼻科に通う人々らと共に、狭いエレベーター一本で8階のホールまでこれらを運ぶ。快晴だったのが救いだ。雨だったらどうなったかは考えたくない。
 佐藤健作と二人、無言で(こういう作業をすることは前から分かっていたのだが、これがけっこう大変なことだというのは当日やってみないと分からない)黙々と作業に取りかかっていると、山野實さん(僕が初めてフルマラソンを走った時も一緒に走って頂いた、ランニングと太鼓の師匠)が突然現れて搬入を手伝って下さった。この時ばかりは山野さんの顔が観音様の顔に見えました。
 8階はホールと言っても、ガランとした空間が待ちかまえているだけ。客席も舞台も自由自在、いかようにも変身可能な不等辺八角形の器である。道具を全部ホールに運ぶと(ここで山野さん退場)、遠く離れた駐車場に車を移動して、それから舞台を作る場所の後ろに梯子で登っての黒幕吊り、平台を組んで舞台と客席作り、平台の上を歩くと板の音が大きいのであわててパンチを張ることにして金槌仕事、客席の椅子は天井ホールのこれまた天井裏から降ろしてきての客席作り、これらを全部、ホールの総支配人兼雑役・黒崎八重子さんと健作と三人でやったので、とにかく黙々と汗も吹きだし時間も過ぎてゆく。それから照明のお手伝いの方が来て下さり、照明仕込みと明かり合わせをしながら簡単なリハーサルをやり、開場前に太鼓アイランド青葉の方々やその他お手伝いの方が来て下さったので舞台転換や受付の打ち合わせなどをやり、この日の為に制作していただいた看板大幕(吉田 類・作)三枚を取り付け、開演の30分前、お立ち会いの皆様の開場時間となって、やっと僕は一息付いた。フンドシを締め、腹にサラシを巻いてもまだ時間があったので、初めて水を飲んだ。開演。満員御礼の中、小銅鑼の音で幕を開ける。

※三枚の大垂れ幕の文字を書いていただいた吉田類(るい)さん。絵は吉田貴保(たかやす)さん

 この日のために準備した曲は、『義太夫即興』、『百八煩悩祓い太鼓』、『空が恋しい』、『オイサー』、『体感音頭』などなど。途中でトークを入れるのであればここまで苦労しないのだが、今回は「90分間、音だけで綴る」とチラシに書いてしまった行きがかり上、簡単に言葉を翻す訳にはいかず、ずっと悶えていた。
 一週間前の夜、西武池袋線「江古田」日大芸術学部の校舎の広場で、初めて生の殺陣を間近に見た。この殺陣は来年3月に公演が決定している大殺陣・大岡組の稽古だったが、男が七人、たった5分ほどの場面の稽古を約一時間半、何度も繰り返した。彼らは一回やるだけで流れる汗を拭いていたが、見ている僕はじっと座っているので寒くてたまらず、途中から広場の周りを体操しながら歩いていた。早く帰りたいと思いながらも言い出せなかったのは、彼らの瞳があまりにも真剣で、そしてそれが淡々としていたからだろうか。その一群の上に月が煌々と照っていた。
 殺陣と言えば古いイメージが付きまとうが、これは何だか違う。僕の胸の中で悶えが少し溶けていく。見終わった後、厚かましいとは思いながら、体感音頭への特別出演を依頼してしまった。そして来ていただいたのが清水大輔さん。数分間の『一人殺陣』をお願いした。闇夜の中の光る真剣が見えたでしょうか?
 公演が終わった後のアンケートを読んでいると、「中国語と三味線はほんものですか?」という質問があった。
 『義太夫即興』の中で使った僕の中国語がまだ疑われているようだ。日本に帰国して5年が過ぎているとは言え、僕は過去4年近く中国で飯を食ってきた人間だ。こういう質問をされること自体が恥ずかしい。この際だからはっきり言っておく。今でも4歳の中国人程度の中国語(中国では「漢語」と言うが)を話す自信は充分にある。たぶん大丈夫だ。そう願っている。
 この曲中の中国語をお分かりになった方が少なかったようだが(たぶん一人だったかもしれない)、きちんと意味のあることを言っていた。デタラメを並べていたのではない。しかし内容についてはとてもここでは恥ずかしくて書けない。外国語というのは何でも多少はその傾向があると思うが、それを使うと、母国語を喋っている時の自分とは違ってしまう。僕は中国語を喋ると人格まで変わるような気がするし、特にこれを京劇風にやると普段は絶対に話せないようなことでも何でも話せてしまうのだ。裏声は地声と対極にある自分を引き出す力をも持っている。この中国語を朝鮮語に変えるとどうなるのか、機会があれば朝鮮語でもやってみたいと思う。
 そして三味線。僕の祖父(父方)の兄が浄瑠璃に凝り、三味線も素晴らしかったと聞く。淡路は人形浄瑠璃の島である。昔はだれでも浄瑠璃の一つや二つできたという島の気骨が、残照のように僕の体の中にもある。僕の弾いている三味線は、今から20年以上前、当時の金で35万円もした、ギターでもお琴でもバイオリンでもない、これも正真正銘、ほんものの三味線である。
 佐藤が一人で叩いた『百八煩悩祓い太鼓』はこれからの季節、皆様も誰でも叩ける太鼓なので、ぜひご家庭でも叩いてほしいと思う。太鼓がない場合は手でもいい。皆が寝静まった深夜、月に向かって手を打つのもなかなか風情があってよろしい。ただ、それを誰かに見られていると後で変な噂が立つかもしれないので、できれば大勢での方がいいだろう。新聞の地方版に載るかもしれない。
 『空が恋しい』は、中島みゆきの「この空が飛べたら」をアレンジしたもの。
 『オイサー』とは「エイサー」をもじった言葉で「好きだ」という意味。男二人の危ない恋の物語で、鼓童時代に作った曲だ(初演1986年12月9日佐渡、翌年11月26日新潟県巻町公演まで、世界7ヶ国で110回演奏した)。だから10年振りの再演だった。ただし、舞台が狭いのと、僕の体力と気力が10年前とは違うので昔のパワーはないが、とにかく再演できたことが嬉しい。
 健作が「やる」と言ってくれたことに感謝をしなくてはなりません。これまでもずっとやりたいと思い続けていたが、付き合ってくれる相手がいなかった。健作も、今回はやるという条件付きでの演奏だったので今後の予定はない。どうしてこんなに楽しい曲をやることを、みんな嫌がるのか僕には不思議でならないのだが‥‥。
 そしてお仕舞いの曲、二台の大太鼓を背中合わせで叩く『体感音頭』は、二人の背中から背中に伝わる体感温度をお客様に計っていただき、思い出という音頭を心に響かせていただきたい、と願う曲でした。
 最後はホールの照明をすべて消し、窓のカーテンを開け、8階の窓から差し込む街灯の明かりだけとし、その薄あかりの中、来年への想いを託した全員での一本締めで、今年の幕としました。

 フンドシとサラシを解き、汗を拭いて着替えれば、これからが忙しい。ホールに太鼓を搬入する前の、何にもなかった空間にすべて戻さなくてはならない。片づけはお手伝いの方々の協力もあり、かなり速く済んだが、最後すべて車に積み終わるまでは僕と健作とクツワダさんの三人で11時近くまでかかった。家に帰ると午前0時半。それからビールを飲みながら飯を作って食べ(朝から何も食べていなかった)、ゆっくり風呂に入ると2時半。一旦は布団に入ったが眠れず、4時からこの文章を書き始めて今は昼過ぎ。またお腹が減ってきたのでご飯を作ります。


    
※『和太鼓体感音頭』は、極力トークのない音だけのコンサートとして、今後も機会があれば是非やりたいと思うのですが、門仲天井ホールはボランティアスタッフなしでは公演が考えられません。平日一日、または夕方からでもお付き合いいただける可能性のある方は、お声をお掛け下さい。

 

富田和明的個人通信『月刊・打組』1997年12月号より


 

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