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富田和明的個人通信

月刊・打組

1998年 5月号 No.36

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叩き 投げ 立ち上がれ 青春の響き

5月2日

 報徳学園と聞くと、高校野球で名を成し、全国的にも知らぬ人は少ないと思う。
 高校時代ブラスバンド部員だった僕は、明石、加古川、西宮、甲子園(県大会の予選にも使われる)、と球場巡りが初夏の訪れであった。まぶしい日差しを浴びてフェリーの甲板で沖を眺めながら仲間たちと海を渡る。球場での照りつける太陽とカチワリと絶叫。僕の青春の1ページが高校野球の応援と共にあった。全国大会に出場したことはないが、我が母校・津名高校野球部もなかなかいいところまで行っていたので、応援は楽しかった。
 しかし、同じ兵庫県下にあってこの報徳学園は全国春夏大会で何度も優勝しているのだ。僕の頭の中には怪物のイメージが焼き付いていた。そこから学校公演の依頼が東京打撃団に来た。中国留学時代の知人Yさんが、帰国後報徳学園の教師となっていた縁からだった。

 Yさんと初めて会ったのは香港の安宿『ダイヤ ハウス』だ。
 ここには世界中を旅してきた人が集まり、これから中国に入国する人、中国から出国(当時はまだもちろん中国返還前)してきた人などが入り乱れ、毎晩情報交換を兼ね宴会のようになる所だった。こういう場所では、その人間のこれまでの経歴や肩書きなどいっさい関係なく、裸の性(さが)というものが顔を出す。元来、真面目と小心を絵に描いて服を着せ歩いているような僕には、皆が生き生きと目に写ったが、Yさんはその中でも一際奥の深い人物に見えた。
 その後北京で再会したが、Yさんは僕ら多くの私費留学生と違い、国費留学生(学費部屋代免除の上、一定の生活費まで貰える)で、その上にあの中国でアルバイト(本当は違法)で稼ぎ、並のアルバイトでは稼ぎはしれたものなのだが、Yさんはいつも羽振りが良さそうで貯蓄までしていた。どんな仕事をしていたのか詳しくは知らない。日本に帰国した時期は、僕と同じ頃だったと思うが、まさかあの報徳学園の先生になっていたとは驚いた。
 今回の公演では、少林寺拳法部とのジョイントが出来ないか?と言われていたが、この少林寺拳法部が創作和太鼓をを叩くのだとは、最初、想像だにしていなかった。たぶん武術を披露してくれるものだとばかり思っていたからだ。
 ところがこの太鼓を見せてもらうと、総勢15〜6名で叩く『乱武留魂太鼓』と名付けられたなかなか気骨のある太鼓で、少林寺拳法部部員が練習の合間を縫って稽古をしたとは思えない立派な太鼓だった。彼らは太鼓クラブの部員ではなく、本業の少林寺拳法では今年の全国高等学校大会でも優勝している。それだけの肉体と技があれば、太鼓も極まるということだろうか。
 それにここには四尺に近い大太鼓があるが、これが校長の弟さんが何年も掛けて一人で作ったという大太鼓なのだ。まさに、報徳恐るべし。なんて学園なんだ!と僕は叫んでしまった。
 東京打撃団とのジョイントは、アンコールで打撃団が『道草』を叩き、その中で少林寺拳法部に『組演武』という少林寺の組み手をやってもらうことにした。「組み」とはいえ蹴ったり投げたり叩いたりは本物で、武術は太鼓の音によく合う。僕はこういうのが嫌いではない。心の中で凛とした風が吹いていた。

 ただ一つ悲しい知らせもあった。少林寺拳法部の今年3月に卒業したばかりのOB主将・三宅康彦さんが、この日の朝会場に向かう途中、交通事故に遭い、亡くなったということだ。
 三宅さんは『乱武留魂太鼓』を後輩に残すべく熱心に毎日指導に取り組んでいたという。今回初めてこの太鼓を学園の中学高校全校生徒の前で披露することになって迎えた朝、どんな気持ちで会場に向かっていたのだろうか。この日は二回公演で、午前の公演が終わって事故の連絡が入っていた。手術しているが大丈夫だと部のK先生から聞いていたが、その日の夜帰らぬ人となったそうだ。
 訃報を聞いてあの日の乱武留魂太鼓を僕は改めて思い出した。舞台ソデから見た、太鼓を叩く少林寺拳法部の皆の気迫の横顔は、東京打撃団に真似ができるものではない、彼らだけの清々しい真剣な横顔だった。三宅さんに僕は会ったことはなかったけれど、みんなの顔が三宅さんの顔のように思い出された。                合掌

※報徳学園少林寺拳法部と東京打撃団ジョイントのアンコール一場面

追記 2000.2.21)この公演がきっかけでその後、僕は何度か少林寺拳法部に立ち寄り、昨年は講演にも招かれた。少林寺拳法の活動および太鼓の演奏でも各方面で活躍している。詳しくは→ 報徳少林寺 乱武留魂太鼓

 


すべての武器を楽器に

5月30日

 眠りの奥から太鼓の音が近づいてくる。その音がだんだん大きくなって眼を醒ます。これは現実の世界なのか、夢の世界なのかと、うつろな時間をまどろんだ後、それでもはっきり聞こえてくる太鼓の音を確認した時の気持ちは、喜びと言うよりまずどんなかすかな音であっても、その音に無の境地になって吸い込まれていく。
 
 タンタタンタン・・・この音はプエルトリコに行った時に聞いた。
 プエルトリコはカリブ海に浮かぶ島だが、着いてみるともっと小さな島に行きたいと思い、クレバラ島に渡った。この島に着いて二日目の夜、ビールで酔っぱらってベッドに横になっていた時に聞こえてきた。僕は酔いが急に醒めた気分でベッドから起き上がり、音の在処を捜した。この町には教会が二つある。その中の小さな教会から太鼓の音と歌声が聞こえていた。入口に立っていると、手招きされて中に入いる。子供も含めて30人ほどがいて、ほとんどが女性だった。後からやってくる人たちもタンバリンと聖書を持って入ってくる。説教や信者のスピーチの間に必ずタンバリンを叩き、にぎやかに賛美歌を歌い、そして踊るのだった。
 
 ドンダ・・ドンダドンダダ・ドン・・・この音はイスタンブールでラマダーン(日の出から日没まで断食する)の時に聞いた。
 これも10年以上昔の話だが、トルコ公演の最中のことで、「もう起きてゴハンを食べなさいよ」という起床太鼓らしかったが、時計を見ると朝の二時半。少々早いのではないかと思った。音色は韓国のチャンゴに似ていたが、石畳の夜の街に響くともっと妖しく聞こえたように思う。この時は民族舞踊団とのジョイントコンサートが、イスタンブールのお城であり、最後はみんなで輪になって踊って終わった。
 
 ドーン・ツァンツァン、ドーン・・・これは中国ビルマ国境・瑞麗(ルイリ)で聞いた。音は町の広場から聞こえていて正月の踊りの稽古が始まったのだと知る。
 6年前の冬、僕は延吉から列車とバスを乗り継いでビルマ国境まで11日間かけて行った。そこでは横柄な漢族が姿を消し、タイ人、パキスタン人、インド人、そしてビルマ人たちが自由に商売をする活気に溢れていた。

 今日どうしてこんなことを思い出したかというと、喜納昌吉&チャンプルーズのコンサートを聞いていて突然湧き上がってきた。
 コンサートの中で特に強烈な太鼓の音があったわけではないのだが、音の塊が遠くから僕の体に届き、そして雰囲気に吸い込まれていくようだった。ビルマ難民支援チャリティーコンサートの会場になった日本青年館大ホールは在日ビルマ人だらけで(3分の1は日本人客だったらしいが)、ホールに入いるとそこはアジアだ。僕はもう日本での日常生活に染まっているが、喜納昌吉は実にアジアの匂いがよく合う。彼の唄や言葉を聞いているとアジアを思い出し、また忘れていた旅の記憶が飛び出すのだ。
 コンサートの最後はお客さんを舞台に上げて一緒に踊って幕を下ろす。こういうシーンはこれまでにも他で何度も見てきた事だが、こんなに自然に融合している空気は初めて感じたし、「すべての武器を楽器に」という言葉が浮いて聞こえてこない。僕が言うととても恥ずかしいのは、僕の根っこにまだこの言葉が浸透していないからだろうが、今夜は僕もそう叫びたくなった。これが音楽という武器だろうか。

 

 

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