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富田和明的個人通信

月刊・打組

2001年 1月号 No.62(2月1日 発行)

このページはほぼ毎月更新されます。年10回の発行

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十九の響き 島を伝える

1月17+31日

 この二日間、四十人弱の三宅太鼓ファンが『津村明男の三宅太鼓塾2001横浜』に集まった。呼びかけ人は僕だが、半分くらいは初めて見る顔だ。
 三宅島神着木遣り太鼓のリズムは、楽譜に書いてみればわずか22拍。その中でも太鼓を打つのは19発でしかない。
 ただこれだけを繰り返すことが、こんなにもなぜ人を魅了する力を持っているのか。
 単純であれば単純なほど、それだけで表現することは至難の事だ。繰り返すリズムの中でまず、打ち手があきらめない(根を上げない)こと、楽しめる(苦しめる)ことが挙げられる。津村明男さんの体の中には島のリズムが踊っている。このリズムはいくら叩いても止むことがないようだ。
 1982年二月、僕は津村さんと初めて会った。二度目に三宅島を訪ねたのが97年六月、そして今回。じっくりと見て、驚いたことが二つある。
 一つは、19年前と比べると形が違うところがかなりある点(細かい点が違うだけで根本的には変わらないが)。これは変わって当然だろう。津村さんが生きている証でもある。もう一つは、人に伝え方が数段上手になっている点。聞いていて説明が分かり易い。これは「疎開生活が長くて、教える機会が増えたせい」と津村さんは苦笑いする。
 昨年の夏前、三宅島の雄山が噴火した。
 それから秋、島を離れて疎開生活が始まる。島を離れたことで、島を、太鼓を、人に伝える機会は嫌がおうにも増えた。島は離れたが三宅の太鼓を叩くことで、その場所が島の匂いに沸き立つようだ。
 次の三宅太鼓塾は本物の島で開きたい。

 ※『津村明男の三宅太鼓塾2001横浜』の写真はこちら


ありがとう マルセ太郎さん

1月26日

 マルセ太郎さんが逝った。
 ガン発見から五年、あまりにも多方面での御活躍に、ひょっとしたらマルセさんのガン宣言は冗談だったのか?とか、マルセさんだけは不死身ではないのか?とも思わせるくらいお元気な姿を舞台では拝見させていただいていたので、太鼓アイランド淡路の講習会の為に淡路島へ出発する朝、新聞でその訃報を目にした時、やっぱりマルセさんも人間だったんだ、死ぬんだ。と、しばし茫然とたたずんだ。 
 最後の最後まで舞台を務め、情熱を燃やし続けたその姿は、生き神さんのようだった。
 この月刊・打組でも何度もマルセさんのことは書いてきたが、もう一度今日は振り返ってみたいと思う。

 僕が初めてマルセさんと対面した日。
 それは今から二十四年近く前、僕が二十歳になったばかり、西友ファミリー劇場『堺正章のそんごくう』の稽古場だった。
 マルセさんがこの芝居に出演したのではない。猿の演技指導者として現れたのだ。僕はこの時役者をめざす卵の卵。演出の関矢幸雄先生は、『役者は肉体表現者』ということにこだわっていて、猿真似ではない猿を表現できるマルセさんを呼んだのだろうか、とにかくその他大勢役(僕のこと)の猿役者十人ほどがマルセさんから指導を受け、本格的に取り組んだ。
 この舞台は主役の堺さんはもちろん素晴らしかったが、脇の猿群もずいぶんと好評を頂いた。この時初めて僕は自分の肉体によって表現する面白さを知らされたように思う。
 今数えてみるとこの時のマルセさんの年齢は、今の僕の年齢と同じ43だ。「スクリーンのない映画館」「マルセ太郎のロードショー」と名付けられる語り芸が認められるまでにはまだ時間がある。ちょうど一番苦しんでおられた頃だったのだろうかと推測する。
 この芝居の後、僕が佐渡に渡り鬼太鼓座に入座し、その後鼓童の旗揚げがあり、それも一息付いた1986年?僕の猿芸(とまではとても言えないが)が生かされる時が来た。
 御陣乗太鼓をアレンジした『鳥獣戯打』という曲を作った時だ。
 舞台で演り始めて一年程がたった時マルセさんがちょうど佐渡にいらっしゃる機会があり、稽古場にも寄っていただき鳥獣戯打の演技指導をしていただいた。板の間に正座し、睨みつけられるように真剣な眼差しだったことを忘れられない。暮れのシアターアプル公演にも来ていただきアドバイスを頂いた。
「動くシーンよりも一瞬に変わらないといけない」そう言って楽屋のソファーの上にマルセさんは突然横たわった。そこには猿以上の猿が天井を見上げて寝そべっていた。
 僕が鼓童をやめてからは、時間がある限りマルセさんの舞台は拝見し、マルセカンパニーのお芝居も上演演目はすべて観劇した。
 記憶は弱者にあり!
 四、五年前に頂いた年賀状にはその言葉だけが書かれてあり、何でも昔のことを憶えていたり、日記に付けたりするのは弱い者のすることで、もうそんな弱い精神の君は卒業しなさいというメッセージなのかと僕は狼狽えた。しかしこの言葉の本当の意味は別にあることを後に知る。
 マルセさんは有名になった後も、その視点は常に弱者の元にあった。それは変わらない。
 一人語りの「泥の河」「殺陣師段平物語」「中村秀十郎物語」。劇作の「花咲く家の物語」「イカイノ物語」。
 これらは特に僕が感動した作品だが、この中でもやはり最後に「花咲く家の物語」の話に触れておきたい。


 五年近く前のある時、マルセさんから巻紙のような分厚い丁寧な手紙を頂戴した。そこには「次に構想中の芝居の最後の大事な場面に太鼓が登場する。それを作るのにぜひ協力して欲しい」と書かれていた。
 本当に嬉しい手紙だった。
 僕はその頃打組をスタートさせてはいたが、まだ太鼓だけでは食べられずアルバイト生活で生計を立てていた。そして初めて交通事故を起こした後で非常に落ち込んでいた時でもあった。そこに届いたマルセさんからの手紙。忘れられていなかった。憶えてくださった方がいた!それは僕にとって神からの伝言のように光輝いていた。 
 その芝居の打ち合わせに初めて行った夜、二人で飯を食べに行った(たぶんたまたまそうなっただけかもしれないが)。新宿のイタリアレストランでスパゲッティーを御馳走になった。マルセさんと向かい合わせに座り、麺を時折ツルツルいわせながらマルセさんがずっとしゃべり続ける。
「この世界中、どこの国に行ってもあるという楽器は何だと思う?ピアノか?いや違う。それは太鼓しかないだろう。どうして太鼓かっと言うと、答えられるか?それは・・・」僕は相づちを打つだけ。観客が一人でマルセさんの独演会を聞いているようだった。
 新宿駅構内で挨拶をして別れたが、僕はマルセさんの姿を目で追う。正面をグッと睨み、背筋を伸ばし前しか見ていない、恐ろしいほどの気迫がそこに立ち込めている。あれだけの多勢雑踏の中、マルセさん一人だけがその構内を歩いてゆく、舞台の花道のように見えた。
『花咲く家の物語』では勝君役の永井寛考さんが、劇の最後に叩く太鼓の曲を作りその基本の指導をさせて貰った。
 やっとお芝居が固まってきましたので、という連絡を頂いて稽古場にうかがい、通し稽古を見る。
 涙、涙のエンディングだ。この涙は何の涙だ?悲しい?嬉しい?感動。人の心を動かす表現する太鼓の音に涙が止まらなかった。
 太鼓の曲はただの器に過ぎない。そこに命を吹き込むのはその人間だ。
 この時に作った曲を勝君の名前から『MASARU』と名付け、太鼓アイランドその他ワークショップで、今でも叩いている。

 ガン復帰第一回目のジァンジァン公演の日。
 本題に入る前の枕で一時間以上ガンにまつわる話が機関銃のように続いたあの日、僕は舞台かぶりつきの床に腰を下ろしていた。
 マルセさんは本当に生き生きとしていた。生還者の顔だと思った。あんなに笑った日は後の記憶にない。涙が出て腹が本当に痛くなるほど笑わされてしまった本物の芸だ。
 今度は、御自身が亡くなった。
 亡くなってから今日までどんなドラマがくりひろげられたのか、マルセさんなら存分に聞かせてくれただろう。笑って笑って笑って泣かされる。そんな生の語り芸を見ることがもう出来なくなる。
 今日は精一杯耳をこらしてマルセさんの声を聞いてみよう。

‥‥‥出棺の日に。

僕はここ淡路島から『MASARU』を叩いてお別れいたします。ありがとうございました。合掌。

● http://www.ppn.co.jp/saru/
マルセ太郎さんのホームページ。一人芸、劇作品の紹介などすべてに充実しています
●『誰がために太鼓は叩かれるのか』
月刊・打組 バックナンバー 97.4.7  マルセ太郎「花咲く家の物語」について

マルセ太郎作・演出『イカイノ物語2001』が春に上演されます!

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インターネット版 『月刊・打組』2001年 1月号 No.62

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