1957年3月、兵庫県淡路島に生まれる
高校時代は、ブラスバンドのチューバ担当。三年時にフォークソング同好会『さくらそう』を結成。作詞作曲をはじめる。
17歳の春、初めてのラジオ出演(1974年6月4日放送)。ABCヤングリクエスト(朝日放送)、キダタローさん司会・公開録音番組「スタジオ貸します」に出演。
18歳まで島で暮らす。初めての一人旅は高校卒業前の四国一周


 


1975年4月(18歳)、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)演劇科入学
 在学中より演出家の関矢幸雄先生に師事し、氏の演出作品に多数出演、またスタッフとして参加。役者を志す。76年4月に初舞台を踏む。松島トモ子ミュージカル「絵のない絵本」(東京芝・ABCホール)に出演。他に文士劇(宝塚大劇場)では中国人曲芸師役など、オペラ「ボカッチヨ」で樽屋(友竹政則)の小僧役。学校の授業としてお囃子講座が開始になり(指導・末永克行先生)夢中になる。太鼓としの笛に初めて出会う。また同じ頃、邦楽の店『鶴星』にて尺八と三味線に出会う。親に無理を言って津軽三味線を買ってもらう。77年3月卒業後も引き続き役者修行。77年夏の西友ファミリー劇場「堺正章の孫悟空」の猿、仙人の弟子役などで初めて全国の劇場を巡回。初めての映画出演は76年3月公開、学院映画科制作の「あほう」あほう役。平沼仁一(東京打撃団代表・当時横浜市鶴見区在住)が偶然この作品を鑑賞して、学院入学を断念したそうだ


1977年10月(20歳)『佐渡國鬼太鼓座(さどのくに おんでこざ)』の公演に感銘を受け、佐渡島に渡る。入座。太鼓の世界に足を踏み入れる。
 約1年間は公演班と同行せず、島で走ることと山羊の世話と留守番。その後、徐々に舞台出演。鬼太鼓座での初舞台はアンコール「酒屋唄」の手拍子のみ、どこの劇場でかは忘れた。初めての海外公演参加は79年4月からのアメリカ、カナダ北米ツアー。ボストンマラソンは2年連続出場。フルマラソンのベストタイムは3時間3分40秒(78年座内元旦マラソン)。79年7月スイス・モントルージャズフェスティバルに参加。9月国立劇場・第三回『日本の太鼓』に出演。この記録映像が初めての動画だと思う(国立劇場資料室で見ることができる)。812月ローマ法王ヨハネ・パウロ2世来日記念式典

旅の生活と島の生活の中で、和太鼓、三味線などを習う。映画『ざ・鬼太鼓座』加藤泰監督作品(デン事務所+松竹)は79年〜80年にかけて撮影された(一般にはほとんど未公開だったが、94年にようやく一般公開された) に出演

 


1981年9月(24歳)『鼓童(こどう)』の旗揚げに参加。ベルリン芸術祭にてデビュー。イタリア、サンマリノ、旧西ドイツ公演など

82年 アメリカ(リンカーン・センター他)、カナダ、メキシコ公演など。 84第一回KODO ONE EARTH TOUR ここに始まる これは驚異の6ヶ月連続世界巡業だった。台湾、香港、中国、イタリア、フランス、スイス、イギリス、スウェーデン、デンマーク、旧西ドイツ、オランダ、アメリカ、日本公演。ドイツオペラ打楽器奏者と組曲「輝夜姫」(石井眞木作曲)初演。ロサンゼルス・オリンピック芸術祭、ニューオーリンズ国際河川博覧会日本週間参加。 85年 アメリカ(ケネディ・センター他)、カナダ、イギリス、オランダ、イタリア、スイス、フランス、日本公演。エジンバラ国際芸術祭、筑波科学万博音楽祭参加。750周年祭参加。

 

12月、1年間の活動ドキュメンタリー・NHK特集『太鼓よ地球に響け!-佐渡國鼓童の20人-』が放映され大きな反響があった

86年 台湾、香港、トルコ、インドネシア、マレーシア、日本公演。トルコ日本週間、バリ芸術祭参加。 87年 アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、旧東・西ドイツ(ベルリン・フィルハーモニーホール他)、日本公演。ロンドン、サドラーズ・ウェルズ劇場2週間公演。ベルリン市制750周年祭参加。 88年 アメリカツアーの後、4月より1年間舞台を離れ充電期間を過ごす。 89年4月より舞台に復帰。アメリカ、カナダ、旧西ドイツ、スイス、ベルギー、フランス公演などに参加。8月末、アースセレブレーションを最後に退座。12年間の佐渡在住に幕を下ろす。

 

 舞台の中心メンバーとして活躍し、演出も一部手がける。特に三宅島の神着木遣り打ち込み太鼓をアレンジ創作した「三宅」で新境地を開き、他にも演劇性を取り入れた作品を多く創作した。一番気に入っているのは、鳥獣が太鼓と戯れる「鳥獣戯打」と、二人の男の愛の葛藤を描く「オイサー」。初めての海外一人旅は83年8月朝鮮半島韓国一周。85年9月〜88年3月舞台班リーダー。85年12月、初めての写真エッセイ集『万里の未知も一打から』を自費出版。86年、ある一日・稽古場写真館 88年4月〜89年3月特別休暇。88年8月、二冊目の写真エッセイ集『万里の未知も一打から.2』を鼓童から出版。充電休暇中に初めての中国留学。中央民族大学(88.9〜12)北京大学(89.2〜3)。89年4月舞台班に復帰するも、89年8月末をもって鼓童を退座、12年間を過ごした佐渡ヶ島を離れる。鬼太鼓座、鼓童時代を通じて世界21ヶ国、1200回以上の舞台に立つ

懐かしの佐渡國鬼太鼓座、鼓童時代的富田和明 SNAP×SNAP山野實写真館 厳選六十数点で30年を振り返る

 


1989年9月(32歳)、再び天安門事件後の中国へ留学。
 北京外国語大学(89.9〜90.7)で中国語を、中央音楽大学(90.9〜91.7)で、中国民族打楽器音楽などを学ぶ。90年11月、北京熱烈留学日記『愛しき五星ビール』を第三書館より刊行。91年、延辺大学(91.9〜92.7)で朝鮮語などを学ぶ


19927月21日発行『AERA』(朝日新聞社・発行)に延辺地区で撮り貯めた写真6点が紹介される。9月末(35歳)に中国から帰国。東京都杉並区阿佐ヶ谷の住人となる。
 日中留学協会で働きながら、95年まで派遣短期留学生の引率団長として度々訪中(主に北京)

 

1993年、群馬県川場村・上州武尊(ほたか)太鼓連の太鼓指導が始まる。富田和明のお話とスライドの会「中国留学日記」を埼玉浦和の楽風(らふ)、大阪高槻のスタジオ76、東京・日中友好協会、中国語研修学校などで行う。9月、中国朝鮮族自治州・延吉下宿日記『豆満江に流る』を第三書館より刊行。1994年3月、台湾・台北で開かれた第21回日華大陸問題研究会議に出席し、中国朝鮮族をテーマに国立政治大学にて論文『中国朝鮮族に関する一考察』発表講演する。7月、炎太鼓との合同でのモンゴル公演「モンゴル平原に太鼓の響き」などに参加

 


1995年1月(37歳)、富田の太鼓活動組織として『打組』を自ら結成。
 富田和明的個人通信「月刊・打組」スタート。阪神淡路大震災で実家母屋全壊となる。和太鼓の本格再デビューは95年2月、舞踏家・和栗由紀夫との「沈める瀧」(四谷P3)。5月(38歳)、渋谷ジァンジァンでの「富田和明 参上 太鼓物語」シリーズがスタート。その他、橋爪功企画「小土肥・菜の花舞台」などに出演。小編成三人組和楽器グループ『一陣風』のメンバーに加わる。7月、『東京打撃団(とうきょう だげきだん)』の旗揚げに参加。11月、山梨県立女子短期大学 公開講座「中国、この大いなる混沌の国」講師を務める。
 12月、銀座築地での「富田和明 兎小舎 なにみてたたく」シリーズがスタート

 

 

1996年元旦、ハンチョウ(河内敏夫)追悼フィリピン・マタブンカイへの旅(平沼と二人で)。3月、駐車場代の安さと緑に惹かれて、阿佐ヶ谷より横浜市青葉区たまプラーザに引っ越す。6月ジャカルタでの「Close-up of Japan96」東京打撃団が中心の‘TAIKO JEPANG’公演に参加

 

1997年2月、3月(40歳)に現在の地元・横浜市青葉区と故郷・淡路島で『富田和明with東京打撃団コンサート』を開き、5月末、富田和明的和太鼓教室『太鼓アイランド 青葉』スタート。9月には国立劇場での『日本の太鼓』に東京打撃団が出演、好評を得る。10月末、『太鼓アイランド 淡路』スタート。12月、門仲天井ホールでの「歳末叩き合い 和太鼓 体感音頭」シリーズがスタート


1998年3月(41歳)、殺陣舞台・大岡組『大殺陣』に音楽出演。7月、サッカーW杯フランス大会閉会式に日本代表として出演、全世界250TV局から放映される。9月には前年に続き国立劇場での『日本の太鼓』に出演、第三部案内役(「日本の太鼓」にはこれまでに計四回出演)。12月、フランス・アフリカ一ヶ月公演に参加


1999年5月(42歳)、子供のための太鼓コンサート『てんドンカツドン たいこドン』、ならびに、8月、子供ためのワークショップ『みんないっしょに たいこドン』スタート。6月には個人情報ホームページ『電網・打組(ネット・うちぐみ)』をスタートさせた。10月、第32回大銀座まつりに参加

 

20003月 (43歳)、故郷・淡路島で『二千年を打つ会』を開催。5月、東京都の東京2000年祭事業「世界の子ども交流コンサート」で和太鼓ワークショップ指導を担当、東京打撃団メンバーとして出演も(NHKBS2で6月に放映)。7月、1995年12月にスタートした『富田和明 兎小舎 なにみてたたく』の最終夜・第15夜を迎える。夏、東京打撃団5周年記念ヨーロッパ一ヶ月公演ツアー(イギリス・フィンランド・ベルギーは打撃団公演、ドイツ「ハノーバー万博」のみ他参加者と合同公演)に参加。9月から、月一回のスペシャルワークショップ『兎小舎 月一打(つきいちだ)』を開始、翌年夏までの全12回の予定。11月、スーパーエンタテイメント「ザ・コンボイ」12月公演『THE CONVOY NIGHT 2000』の為に太鼓作曲指導を行う

 

2001年正月 (43歳)、東京打撃団初、赤坂プリンスホテル・クリスタルパレスにてニューイヤーズ新春特別 公演を行う。3月、『ミスシンガポールユニバース2001』オープニング出演、またシンガポール理工学院にて初の中国語での和太鼓ワークショップを行う。6月(44歳)、NHK-BS2 『フルーツサンデー』に東京打撃団ゲスト出演。7月、サンリオ「ピューロランド みこし祭り」太鼓作曲指導を行う。太鼓アイランド徳島の第一回講座が開かれる。9月〜10月、劇団青年座スタジオ公演『人魚まる裸みだれ髪』の太鼓作曲指導出演をこなす。第一回『太鼓アイランドUSA』の旅に出る。12月、和太鼓 新紀撃(しんきげき)スタート

 

2002年正月 (44歳)、小平市での東京打撃団公演を最後に、打撃団を退団。一人の太鼓打ちとして独立、新しい一歩を踏み出す。5月(45歳)、日韓共催・サッカーW杯参加イングランドチーム淡路島到着・歓迎のセレモニーに参加。10月、太鼓生活25周年記念・イギリスで初めてのワークショップ『太鼓アイランドLONDON』を行う。オックスフォード・ブルックス大学において、「JAPAN AT PLAY/日本の遊び文化」というカリキュラムでの特別講師を務める。12月『和太鼓★新紀撃 02約束』初めての本格的劇場公演をカメリアホールの共催で行う。自曲「約束」のダンスバージョンとカラオケバージョンを録音(編曲/内山 有希夫)

 

2003年正月、佐藤健作との太鼓Duo『和太鼓 里味(さとみ)』始動。6月(46歳)、『声に出して叩きたい太鼓』 の第1回合宿をOh!太鼓で開始。7月、富田和明 太鼓生活25周年記念公演『おめでとう!オレ』を、ゲストに山下洋輔、藤本吉利、両氏を迎え行う。山下洋輔さん曰く「鼓童の以前の主力メンバーで、いわば「富田流芸能太鼓」確立の、富田和明さんのリサイタルに助太刀」(CDジャーナル掲載エッセイ全文はこちら)。10月、鼓童・齊藤栄一との『和太鼓トーク齊富(さいと)』第一回公演を実施

 

2004年3月(47歳)、都内で三番目『太鼓アイランド文化の森』開始。4月、他の都内太鼓アイランドもリニューアルスタート。太鼓アイランド江東から『弾!打から団』誕生、太鼓アイランド目黒も『富田伝統太鼓塾』として 開講。8月、徳島阿波踊りにて『同行二人連(どうぎょうににんれん)』発足デビュー(連長)12月、世界初 全編お芝居仕立ての太鼓コンサート『和太鼓★新紀撃 03誕生』初演

 

2005年3月(48歳)、太鼓アイランド初めての発表会・『打一好祭2005』開催。4月『太鼓アイランド横浜』『太鼓アイランド草加』スタート、12月、完全一人太鼓舞台『鶏音鼓2005 発響』公演を行う

 

2006年3月(49歳)、太鼓アイランド第二回発表会・『打っ手2006』開催。7月、完全一人太鼓舞台『鶏音鼓2006 発響』再演四日連続公演を実施写真館。8月、東京国際和太鼓コンテスト・大太鼓部門に出場 11月、清水の舞台から飛び降りる決意で新調浅野太鼓製長胴大太鼓(口径3尺2寸・最大径4尺2寸・胴長4尺1寸5分)を購入

 

2007年1月(49歳)淡路と東京で新大太鼓お披露目感謝打ち込み3月(50歳)、太鼓アイランド10周年記念/第三回発表会・『打一好祭2007』開催。6月、太鼓芸能生活30周年記念『ありがとう淡路島! 寺院と感動 歩き太鼓之旅公演』完歩。8月、18年振りに佐渡EC特別フリンジに参加・鼓童に招聘される。太鼓アイランド佐渡も開催。東京国際和太鼓コンテスト・大太鼓部門に2回目の出場。10月、30周年記念東京公演『あの音が聞こえる〜道行きの太鼓/千客萬來』では約25名が出演、太鼓絵巻公演を打ち広げた/写真館二度目の太鼓アイランドUSAカルフォルニア。11月、徳島太鼓舞台。12月、30周年打ち上げ感謝パーティーを開催。

 

2008年5月(51歳)四国八十八ヶ寺巡り 歩き遍路 富田打ち 阿波國之巻。7月、夏の太鼓ライブ『夏打、海打、太鼓打!』。9月、トーク齊富リハーサル中に脳出血。一週間入院後、また退院一週間後に舞台復帰。10月、三回目の太鼓アイランドUSAカルフォルニアを実施。12月、年末太鼓ライブ『冬打!宇宙打!太鼓打!』

2009年(52歳)3月、太鼓アイランド発表会『打一好祭2009』を開催。門仲天井ホール開館20周年記念・打組和太鼓企画として、夏秋冬三公演を行う。7月に、夏の太鼓ライブ『夏打、海打、太鼓打!2009』。秋10月、『和太鼓トーク齊富 弐零零九』。11月四国歩き遍路・富田打ち 阿波國から土佐國へ。12月、年末太鼓ライブ『冬打、宇宙打、太鼓打!2009』を開催した。

2010年2月、第一回『打開一会』を開催。7月(53歳)『夏打、海打、太鼓打!2010』を開催。8月宮前太鼓ミーティング、10月大田区太鼓の祭典に参加。12月にはペドロゴンザレストミーダの名前で『冬打、宇宙打、太鼓打!2010』を開催。6月と12月に、六時間大太鼓マラソンを開催。

2011年元旦、淡路島の太鼓打ちが集う『新春奉納大太鼓祭』を実施。3月(54歳)、太鼓アイランドオールスターズによる『打一好祭2011』を開催予定が、東日本大震災の影響によりやむなく中止。7月、チャリティー大太鼓ライブを開催。12月、露木一博との二人舞台『冬打、宇宙打、太鼓打!2011』を開催。

2012元旦、第二回新春奉納大太鼓祭を実施。太鼓芸能生活35周年記念。3月(55歳)、『打一好祭2012』を開催。6月、淡路島百名の太鼓打ちが参加する『淡路太鼓一座コンサート』を開催。7月、一人太鼓舞台『鼓かくさず叩きます』。11月、『和太鼓トーク齊富スペシャル2012』を開催
 


2013元旦、第三回新春奉納大太鼓祭を実施。3月(56歳)、『打っ手2013』を開催。6月、2週間のイギリスツアー2013を行う。Wem Taiko Festivalに参加。7月、三作目の一人太鼓舞台『鼓かくさず叩きます2013』を開催。8月、一週間の歩き遍路を打つ。9月、富田和明的日々是無打噺『2020年日記』開始。12月、露木一博との二作目・冬打2013『伝説の太鼓打ち 父をたずねて三千打ち』を開催。



2014年元旦、第四回新春奉納大太鼓祭、3月(57歳)、『打一好祭2014』開催。6月、藤本吉利さんとの『和太鼓 ふじもとみ打』公演イギリスツアー2014を行う。Wem Taiko Festivalに参加。7月、UK Taiko Festivalに参加。8月、歩き遍路富田打ち2014夏、第16回みやまえ太鼓ミーティングに出演。9月-10月、歩き遍路富田打ち2014秋、12月、富田独演打会『鼓かくさず叩きます Vol.3』を実施。



2015年、1月、打組結成20周年を迎える。3月(58歳)『打っ手2015』開催。5月、前橋市の依頼により、ぐんま花燃ゆ応援太鼓曲『花は一途』を作曲指導。完成披露/イメージソングも作詞作曲。6月、夏打2015『大太鼓六十分一本打ち』公演。7月歩き遍路富田打ち2015、8月鼓童アースセレブレーションECシアターにて『ふじもとみ打2015』を再演。12月、藤本容子さんとの二人舞台・冬打2015『容子和鼓』を発表


2016年、3月(59歳)『打一好祭2016』開催。5月、八年掛かりで四国八十八ケ寺 歩き遍路を結願。6月、太鼓芸能生活39周年記念公演『和太鼓トーク齊富2016』。7月、オーストラリアツアー第5回全豪和太鼓Festival in Gold Coastにゲスト出演。


2017年、2月、近藤克次40周年記念『苦打楽打』公演にゲスト出演。3月、還暦(60歳)。4月、『打っ手歓暦2017』開催。5月、太鼓アイランド20周年。横浜から淡路島までを歩く『富田歓暦歩き打ち〜浜から島へ』浜島日記を発表。10月、太鼓芸能生活40周年を迎える。記念公演『太鼓打ち誕生』開催。動画『浜から島まで2017』12月、太鼓アイランド伊豆発足

 

 

2018年、1月、太鼓の里・響和館での太鼓講座が始まる。4月(61歳)、『打っ手春風2018』開催。8月、新潟県長岡市小国小学校の依頼により、小国じまん囃子『八石 HACHIKOKU』を作曲指導、完成披露

 

2019年、3月(62歳)、『打っ手平成2019』開催。6月、富田和明的和太鼓基礎練習覚書『太鼓ノート/いろは』打組出版。

 

2020年、9月(63歳)、2013年9月から7年間の2557日を綴った『2020年日記』を終了。開催がコロナの為に延期になっていた『太鼓打手2020』11月に開催

 

2021年、4月(64歳)、『富田和明 栗田紘子 大太鼓つなぐ会』開催。5月、一年延期になっていた響和館 発表会『響和祭12』に参加出演。12月、『コロナ終息祈願 濱八丈打ち込み』を開催。

 

2022年、3月(65歳)、太鼓の里・響和館『響和祭2022』に参加出演。4月、YouTubeチャンネル『富田和明 太鼓チャンネル』を開設。

 

2023年、3月(66歳)、コロナ禍で休止していた『太鼓アイランド淡路』が復活。6月、太鼓合宿『Oh!太鼓』も再開

 

2024年、2月、成田山東京別院 深川不動堂にて太鼓曲『打!般若心経・永巻』初御披露目

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富田和明的2020年日記 毎日配信中!

 

 

 

写真説明1975年=76年に撮った演劇青年の頃の学生証用写真・19歳 1977年=写真は79年元旦マラソン後の集合写真。中央は山野實氏、他は当時の佐渡國鬼太鼓座メンバー・21歳(提供/山野實) 1981年=(1枚目)鼓童結成当初81年頃の稽古風景。佐渡郡真野町大小 稽古場。中央で屋台ばやしの太鼓を叩いているのが富田・24歳(2枚目)87年頃の写真・30歳 1989年=中国留学中の90年夏。民族音楽取材旅行中の陜西省で地元の劇団との交流会で歌を唱っているところ・33歳(撮影/井口淳子) 1994年=ウランバートル郊外・モンゴルの大平原で(撮影・桝野正博) 1995年=再デビュー作「沈める瀧」公演で・37歳(撮影/山本宗補) 2000年=1月戸塚公演劇場外にて・42歳(撮影/佐藤健作) 2002年=7月、新紀撃02公演チラシ撮影・45歳(撮影/青柳健二) 2003年=7月、25周年記念公演にて・46歳(撮影/阪巻正志) 2005年=10月、鶏音鼓48歳(撮影・YOSHINAGA Yuri) 2007年=1月、伊弉諾神宮元旦打ち込み・49歳(撮影/富田明廣) 2012年=5月 55歳(撮影/齊藤栄一)2013年=10月 56歳(撮影/YOSHINAGA Yuri)2016年=5月 59歳(撮影/森 賢晃)2017年=5月深川不動堂にて・60歳(撮影/与那嶺幸代)敬称略

2017.5.21 撮影


富田和明 略歴(まとめ)TOMIDA KAZUAKI

■1957年淡路島生まれ。横浜放送映画専門学院 演劇科(現・日本映画大学)卒業。在学中に初めて和楽器と出会う。役者の道を目指しつつも1977年、和太鼓公演に感銘を受け、20才で「佐渡の國鬼太鼓座」入座、その後「鼓童」旗揚げに参加。89年夏に退座。佐渡を離れ、四年間の中国留学に。帰国後、 再び太鼓の世界に復帰。1995年自らの太鼓活動組織「打組」(うちぐみ)を結成、同年「東京打撃団」旗揚げに参加。2002年退団。現在はソロ公演での演奏活動、作曲、太鼓指導、ワークショップの主催など多方面で活躍中。これまでに公演旅行で訪れた国は32ヶ国以上にのぼり、公演回数も2000回以上になる。自主公演では完全一人太鼓舞台『鶏音鼓』『鼓かくさず叩きます』熊谷修宏との『和太鼓★新紀撃』齊藤栄一との『和太鼓トーク齊富』藤本吉利との『ふじもとみ打』藤本容子との『容子和鼓』などを行い、また大太鼓六十分一本打ちにも挑むなど、新しい太鼓世界の創造を目指してきた。東京横浜から淡路島まで歩く『富田歓暦歩き打ち〜浜から島へ』を2017年春に実施した。和太鼓ワークショップ『太鼓アイランド』を主宰。横浜市青葉区在住

■太鼓アイランドは、2025年に28周年、打組は30周年、太鼓芸能生活は48周年を迎える

■留学/北京中央民族学院(1988.9〜1989.1 中国語)、北京大学(1989.2 中国語)、北京外国語学院(1989.9〜1990.7 中国語)、北京中央音楽学院(1990.9〜1991.7 民族打楽器音楽)、延辺大学(1991.9〜1992.7 朝鮮語)

■作曲/群馬県川場村の依頼による和太鼓組曲「TAKERU(やまと たける)」の他、愛知県旭町に「祭会(さいかい)」、新潟県越路町に「古志の風(こしのかぜ)」、岐阜県岐阜市に「勝手鼓手(かってこて)」、東京都・世界の子供交流コンサートでの「宝の海」、群馬県藤岡市市政50周年記念太鼓曲「この空〜天までとどけこの響き」、群馬県前橋市よりの依頼で、2015年NHK大河ドラマ『花燃ゆ』応援太鼓曲「花は一途」、川崎市宮前区・みやまえ太鼓ミーティングで『トキメキみやまえ』、新潟県長岡市小国小学校『八石HACHIKOKU』、般若心経を太鼓の響きにした『打!般若心経』など他多数

■著書/『万里の未知も一打から』1985年自費出版。『万里の未知も一打から・2』1988年鼓童出版。『愛しき五星ビール』1990年第三書館出版。『豆満江に流る』1993年第三書館出版。和太鼓基礎練習覚書『太鼓ノート・いろは』2019年自費出版。

1992年7月21日発行『AERA』(朝日新聞社・発行)に延辺地区で撮り貯めた写真6点を発表
1994年、台湾・台北で開かれた第21回日華大陸問題研究会議に出席し、中国朝鮮族をテーマに国立政治大学にて論文『中国朝鮮族に関する一考察』発表講演
1995年4月から96年10月にかけ、太鼓と人間の研究情報誌『たいころじい』(十月社・刊)に「中国的太鼓見聞記」を四回連載(第11巻〜第14巻)

 

■月刊打組/『太鼓打ち誕生物語』1995-

■ブログ/『その日の気分打!』2000 2001 2002 2003 2004 2005 2005-2014 2014-現在

■日記/富田和明的2020年日記『TMM2020』2013.9.9-2020.9.8

■動画YouTube/富田和明 太鼓チャンネル

 

      2020年日記

 

 

 

 

TOMIDA Kazuaki was born in Awaji-shimain 1957,
an island in the eastern part of the Seto Inland Sea, Japan. He studied acting at Yokohama Vocational School of Broadcast and Film (now Japan Academy of Moving Images). During that time he had first encounted and experienced Japanese Traditional musical instruments. 1977 deeply moved by Ondekoza's public performance, he went to Sado Island and since then started his taiko journey. After only about a year time, Kazuaki started to perform, 1978-1981 he toured overseas as a member of Ondekoza.
1981 July, he and remaining members of Ondekoza started KODO! After 8 years as a key performer, in year 1989, he left Sado Island and started his 4 years long study in mainland China. He had not only studied at university includes Minzu University of China, Beijin Foreign Language Studies University, Central Conservatory of Music and Yanbian University, but also visited and stayed with various folklore musicians/artists through out china.
After returned to Japan, in 1995 he started his own drumming activity organization "Uchigumi". Same year he took part in the establishment of "Tokyo-Dagekidan". Year 2002, in order to seek new way for Taiko, he left Tokyo-Dagekidan and since started to play actively as an independent Taiko performer as well as running regular drumming workshop "Taiko-Island".
http://www.tomida-net.com/

 

 


●これまでに、太鼓の演奏旅行で訪れた国

 

オランダノルウェースウェーデン

フィンランドデンマーク

西ドイツ(統合前)東ドイツ(統合前)ドイツ(統合後)

イギリスフランスイタリア

スイスサンマリノベルギー

ルクセンブルクオーストリア

エジプトケニアタンザニアザンビア

トルコ日本中華人民共和国

香港(返還前)マカオ(返還前)

台湾インドネシアシンガポール

マレーシアモンゴル

オーストラリア

アメリカ(アラスカ、ハワイ含む)

カナダメキシコ

●公演ではなく、個人の旅で訪れた上記以外の国

モロッコフィリピン韓国

プエルトリコ


電網・打組、富田へのご意見、ご感想、ご質問は、

Eメール utigumi@tomida-net.com まで

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